甘い鍵

 こんな日は余計に、行き付けの喫茶店の階段は危ないと思う。ミュールでは転んでしまいそうな階段を、滑らない様にそっと下りる。ビニール袋に入るのを拒む傘を捻じ込んで店内に入ると、カウンターの指定席が埋まっていたので、反対端の席に着いた。出てきたシナモントーストに、メープルシロップをかけながら携帯のチェック。いつもの昼の時間が過ぎていく。

 朝1往復だけのメールの恋人と解っていても、つい見てしまう液晶に映った手持ち無沙汰の自分は、我ながら魅力のかけらもない。恋なのかどうかも解らないけれど、その檻にいれば孤独に焦ることはない。それだけなのよ、あの人も、あたしも。事実、特別な言葉などないんだから。名目だけの、名目にもならない関係。
 飲み頃に冷めた珈琲を含みながら、嘯いた自分に苦笑した。
 何やってんのかしら……。

 早目に出て本屋でも行こうと席を立ち、いつも座る場所を見た瞬間、その後ろ姿に釘付けになってしまった。

 似ている。あの髪の流れ具合。

 背格好も、座り方も、別れたあの人にそっくりだった。覗き込む事も出来ず、促される様に支払いをしたものの、傘を取りだすのに手間取っているようなふりをして、横顔を見ようとした。結局、不自然な時間が過ぎてしまって、諦めて階段を昇った。

 突然の遭遇で、私は多少動転していた。思い出す事もなくなった、年の離れた恋人。何処かで拾って来たような、歯の浮く台詞を放る人。抱くくせに抱きしめない、心に虚しさを置いて行く人。それでも最後は泣き言を言って、私に優越感もくれた人。

 珍しい時間にメールが入った。
「こっちはいい天気だよ、なんか眠いよ」
 ……暢気ね。
 貴方のネットの恋人は、昔の男の熱い言葉に自信取り戻しはじめてる。その存在はもうわからないし、きっと似ていた人よりも、白髪も増えて背中も小さくなってるに決まってる。けれど、今の私が欲している言葉を過去にもらっていたこと。それだけでこの檻から飛び立つ羽根になることは、男の貴方には解らない。
 傘を打つ雨音が、私を出そうと鍵を開けている。

「今、口説かれてたのよ、私」

 送信ボタンを押しながら、甘い鍵が檻を閉めていく画面を、やっぱり待っている私がいた。

〔了〕


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