Sunset-blues

letter 4

 そろそろ店を閉めようかと、ママがレジを覗っていた時に、黒いニットドレスの彼女は入って来た。その顔に見覚えがあるのはママだけだった。
「お久しぶり」
「今、閉めるとこだったんだけど」
「素っ気無いのね、そんなに避けずに一杯頂戴よ」
 ママの言葉に意も介せず、その女性はカウンターに座った。
「……カルバトス。一杯出してやって」
 ママは諦め顔で言った。あまり歓迎はしていないようだった。妙齢なその女性は、髪を緩やかにまとめて、リブのボディラインに沿ったニットを臆する事なく着こなしていた。胸には孔雀石の鮮やかな緑が目映いハットピンが1つ。あまりの整い方に、私は返事も忘れてボトルを探していた。

「何の用なのよ」
「別に。ああ、懐かしいわ、この店」
 ママは若い子達を送り出し、カウンターに腰掛けた。彼女はしっとりとオイルを含んだ木目を撫でながら微笑んだ。
「懐かしがる程居なかったでしょうに、それに……。良い思い出もないでしょ、あんた」
 吐き捨てたママはカウンターの中に入り、ヘネシーを掴んだ。
 まずい……。このテンションでヘネシーに手をつけると、絶対悪酔いする。
「ママ、今日は結構飲んでらっしゃるから、水で割った方が」
 私が制しても、ママは黙々と大きな氷を入れたグラスに酒を注ぐ。
「やめときなさいよ、あんた強くないんだから」
 彼女はママのグラスを取り上げる。
「あんただって、カルバトスなんて甘い酒しか飲めないじゃないの。あんたに言われたくないわね」
 ママはグラスを取り返して一気に煽った。

 長期戦を覚悟して、まずは着替えようとロッカーでジャケットを羽織ったと同時に、店の方で椅子の倒れる音がした。慌てて戻ると、ママは立ちあがって冷静な彼女に食って掛かっていた。

「あんたは、あの人を寝取ったんじゃないの! その時に全部終わっちまったのよ。あたしの手首から流れちまったの。恋も、友情も、裏切りもね」
「――芙美ちゃん。何年経ってると思ってるの」
 彼女は、少し強めの口調で言い返した。
「確かに、あの時健志さんは私を選んだわ。芙美ちゃんはこの世界でトップになるために頑張ってたけど、健志さんはその間寂しかったのよ」
「あたし、ずっと知らなかったのよ、あんなに愛してるって解ってたはずのあんたに、ずっと騙されてたの。相手があんたじゃなかったら、あたし切ったりしなかったのよ」
 彼女の美しい冷静さが、ママの劣等感を煽る。その傷は目に見える傷だけでなく、ずっと深い所で疼き続けていたのだろう。
 長い沈黙がフロアを包んでいた。


 私も腰を落ちつけようと、倒れた椅子をカウンターに持ち込み、残り少なかったメーカーズマークを飲む事にした。
「失礼ですが、いつ頃からのお知り合いなんですか」
「私と芙美ちゃんは、一緒に上野に降り立った仲なの」
「集団就職ですか」
「ええ。青森の奥の方からね。最初は普通の飲食店の下働きとかしてたんだけど、なまりが抜けないし、馴染めなくって……。気がついたらこの世界にいたと言う訳」
「やめてよ。そんな昔の話。もうあの頃は帰らないんだから」
 ママはもう、言葉が怪しくなってきた。カウンターに身を預けている。

 彼女の悠然とした態度に、苛立ちを覚えたのは身びいきだろう。
「あなたはさっき、選んだと仰いましたけど……。あなたは選ばれた訳じゃないと思うんです」
 彼女は、言葉の刺に気づいたように私を見上げた。ママは眠ってしまったらしい。
「彼の中では、ママとの間は終わっていた。そしてあなたがそこに来た、それだけの事です。終わっているのに、単純にちやほやとかまって欲しかっただけで、ママを繋いでいたに過ぎない。でも、そんな男があなたを幸せに出来ましたか」
「そうねぇ……。愛している時は幸せだったけど……、いつも満たされはしなかった気がするわ……」
 彼女は少し酔った瞳で、昔を思いだしていた。

「愛情なんて、自分が渡した器に心が詰まって返って来ない限り、満たされないと思いませんか。いくら器を渡しても、空荷では満たされないし、心ばかり貰っても、自分の器に入ってなければ満たされない。私はそう思うんですよ」
 仕事が終わった後の酒は、少し私を饒舌にしてしまったようだ。彼女は、きっとそうね、と言うと眠っているママを見ながらまた少し酒を含んだ。
「カルバトス、好きなんですね」
「いつもは飲まないの。芙美ちゃんといるときだけ……。だから久しぶり、ブランデーなんて」
 彼女はグラスをくるくると回して、空気に触れさせながら楽しんでいる。店に甘い香りが広がる。
「どうしてママとだけなんですか」
「さぁ、故郷の味なのかしら……、同郷は芙美ちゃんだけだから。それに、今日はあの人の13回忌なの。多分あの人、結局は芙美ちゃんが好きだったのね。突然一人で逝ってしまうんだもの。だから私はずっと選ばれたんだと思いこんで来たの……。でなきゃ、やり切れないじゃない」
 美しく整っていたはずの彼女の頬に、後れ毛が掛かった。それだけの事なのに、彼女は入って来た時よりも、数段魅力的な女性になっていた。それは私の心の変化だろうか。
「ママはそれ、知らないんですね……」
「ええ。あなたも騙してるって責める?」
「言ってあなたが崩れてしまうなら……。仕方のないことです」

 ふと見ると、彼女に背を向けて寝ているママの頬を涙がつたった。私は、彼女に言うまいと思った。傷ついたママの敵討ちのように。
「じゃあ、幾多の人生と、故郷に乾杯」
 林檎のブランデーが、二人の雪解けを赤く揺らしていた。

<letter 3  letter 5>


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