熱帯夜の赤い月

vol. 5

 金曜の夜、私は自宅でソルティ・ドッグを飲んでいた。あの日から、アルコールに頼って眠る癖がついている。適当に混ぜたグラスと小皿の岩塩を交互に舐めていると、あの携帯が鳴った。声の後ろで車の騒音が聞こえ、明らかにあの民宿から出たことは解った。
「何処にいるの、嶋ちゃん」
「これから、話をしに行く。麗子が部屋を貸してくれるそうだ」
 嶋村の声は、騒音の中で少し聞き取りにくい。
「えっ? 麗子さんと会うの?あの男じゃないの?」
 私は、今ひとつ理解しきれていなかった。
「いいから、通りまで出て来い」
 また……。こんな時間からどうやって言い訳すればいいのよ。

「先に寝てて。友達が飲み屋で潰れたらしいの」
 こんなこと親に言って出てくる生活は止めたいと思ってはいるのに、『子供は我が家から嫁に出す』と聞かない両親に甘んじている。何処かで、そんな家があるから踏み外さずに済んでることも、解ってはいるのだが。
 嶋村のバイクに乗り、私は麗子さんの部屋に向かった。


 その部屋は、今までの彼女の努力の結晶だった。広いワンルームにイノベーターのソファー、イサムノグチのガラステーブルや照明。何気なく置かれたロックグラスのクリスタルまでが、彼女の素質の全てで手に入れたものたちだった。
 麗子さんは、私服でも革のパンツを穿いていた。
「仕事行こうかと思ったんだけど、面白そうだから見ててもいい?」
 真っ赤なソファーで足を組み、例の笑顔で嶋村に話し掛ける彼女は、気後れするほどの光を放っていた。
「ああ。なんか壊しても家主がいれば気が楽だからな」
 このツーショットは、対等でもあり、ライバルのようでもあった。

 やがて。その写真の男は現れた。

「裏で陰湿なことしないでさ。話つけたらどうなのよ」
 麗子さんのドスは、女の私でも惚れ込むような威厳と自信があった。
「まあまあ……。こちらさんの事情も判らなくはないんだ」
 嶋村のいい加減な助け舟に、その男はいきり立った。
「てめえ! 一人でぬくぬくと生きてる上に、文子に手ぇ出しやがって!」
 掴みかかる男を避けもせず、逆にあいつは胸座を掴んだ。

「お前の親父は俺に言ったんだよ。『自分を殺って、その保険金で借金と家族を養う当てにしてくれ』と」
 男は自分の父親の話に、一瞬気を抜いた。その隙に嶋村はソファーへ男を投げつけた。仁王立ちの嶋村は言葉を続けた。
「当然俺は断って、1年待ったんだ。その間にどんなことしても家族と社員を喰わせてやれ、ってな。そして1年後に、あの人は自殺したんだ。専務に僅かばかりでも払い続けてくれって遺言を残してな」

「祥子さんもグレープフルーツは好き?」
 奥でそ知らぬ振りした麗子さんの声がした。
「ええ。さっきまで飲んでました」
 ソルティ・ドッグは嶋村の好きなカクテルだった。麗子さんは私の分も作ってくれているようだ。
「もうすぐ来る頃だわね。12時で上がるって言ってたから」
 麗子さんが時計を見上げたとき、ドアチャイムが鳴った。

 入ってきたのは文さんだった。
「……どういうこと?」
 彼女はこの顔ぶれに混乱していた。その男と嶋村が一緒にいることが信じられない、と言った顔でその場に立ち尽くしていた。
「いいから、座んなよ」
 麗子さんの投げたクッションにへたり込むように座っては見たが、やはり落ち着かない様子で所在なさげだった。

 一人がけのソファーに悠然と座っていた嶋村が、隣のスツールに座る私に薄く笑って話し掛けた。
「文はな、血が出るまで傷つけてやらないと満足しない女なんだ」
「文子、そうなのか?お前が望んだことなのか?」
 その男は文さんに詰め寄っていた。
「止めてください! 祥子さんがいる前でそんなこと言わなくても」
「お前が文をこんな風にしたのか……」
 嶋村を睨み付けている男の脇を、文さんのグラスを持ってキッチンから出てきた麗子さんが通って空いてるソファに腰かけた。
「嶋ちゃんがしたんじゃないわよ。文がうちの店に来た初日に、変な客に当たっちゃってさぁ。教育し直してくれって、嶋ちゃんオーナーに頼まれたのよ。まぁ、それで文は惚れちゃった訳よね?」
 ニコニコと話す麗子さんと対照的に、文さんは泣いていた。
「……知ってたんです。好きな人がいることは……。でも……。ごめんなさい」
「いいんだ。知ってて放って置いた俺がいけないんだ」
 二人の会話に、もう私はその場にいることが出来なかった。
「私はいいんです。これでもう襲われないなら……、ごちそうさま」
 私はゆっくりと立ち上がり、麗子さんに会釈した。

「また逃げるの」
 麗子さんの声が低く響いた。
「アンタ一人何も苦しまずに、この場から逃げるの。叫べばいいじゃん。泣き叫んで縋り付いてさ。それが愛じゃないの?」
 私の中で何かが割れる音がした。それは心の水晶だろうか。その壊れた心を直視しながら、私は酷く冷静になった。

「何が愛よ。尻尾振って来なきゃ、なんて人の出方窺って自分から好きだとも言えないくせに。そんなのただの弱虫よ」

 立っている私が見下ろしたのは、憮然とした麗子さんと無表情の嶋村だった。
「俺の気持ちは伝わらなかったってことだな」
「ええ。伝わったのは甘ったれた言葉遊びだけよ」
私はその部屋を後にした。


 文はまだ泣いていた。
「ごめんなさい。嶋村さんも祥子さんも傷つけて……」
「いいんだ。仕方のないことだ」
麗子は、グラスを煽ると席を立った。
「なにやってんの。嶋ちゃん、カッコつけてないで、早く行きな」

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