好きな人

vol. 1

 賄いが終わって食器を下げに行くと、奥から話し声が聞こえた。

「好きな人がいるんです」

 おお?
 野次馬根性で、そっと倉庫を覗いた。そこには、厨房の西田さんとバイト仲間の早苗ちゃんがいた。
 俺は少なからずショックだった。
「早苗ちゃん、好きな人いるのか……」
 結局、大人の西田さん「そうか」とだけ言って、あとは普通に接していたが、白衣の背中はちょっとぎこちなかった。やっぱりショックだったんだろうか。

 女子のホールは何人かいるが、早苗ちゃんはとても楽しそうにバイトしていて、バイトの男連中でもポイントは高かった。
「彼氏いるのかなぁ」
「彼氏いたらひと夏ずっとバイトなんて入れないだろ」
 俺たちの中では、早苗ちゃんはフリーという頭があった。だからなおさら、「好きな人」の存在は驚いた。
 それから店の掃き掃除をしていても、彼女の声がずっと引っかかっていた。少し恥ずかしそうに、でもはっきりと言ってたな。その人のこと、好きなんだなぁ。
 ゴミを捨てに行くと、早苗ちゃんがダスターを洗っていた。俺はなんとなく聞いてしまったことが後ろめたくて、こそこそと横を通り過ぎた。
「あ、聡くん」
 ゴミ袋がガサガサとうるさいので、彼女は俺に気づいてしまった。
「お、おぅ」
 俺は背中を向けたまま、余計ガサガサと音を立てた。

「……聞いてたでしょ」

 彼女は、蛇口を止めて、次々と絞っていた。
「な、何をだよ……聞いてないぞ、俺」
「あはは、別に隠してるつもりもないからいいよ」
 あっけらかんと笑いながら、彼女は続ける。
「で、聡くんはいるの?好きな人」
 なんか悔しくなった。俺は早苗ちゃんみたいに、はっきり好きだと思える人はいない気がしたし、そこまで好かれている相手の男にも、腹が立った。
「いないな」
「そっか。残念ね」
 ぶっきらぼうに答えると、彼女は気持ちよさそうにパンパンとダスターを干した。
「でも、良かったかも」
「なんだよ、俺に好きな人がいないのがいいことかよ。自分ばっかり幸せそうでさ」
俺はちょっとムッとした。
「まぁまぁ、今日も頑張って仕事しましょーっ」
彼女は満面の笑みで、ポンと俺の肩を叩いた。その時、なんとなく予感がした。
 もしや、俺か?
 右の肩の温度を感じながら、思い返していた。彼女は今までバイトの、この職場にいる男の誰にも触れたのを見たことがない。

 混んだ店内で、「お願いしまーす」と響く早苗ちゃんの声を聞きながら、俺は(そんなわきゃないよなぁ)と自分を笑いながらさっきの予感を打ち消していた。好きな人がいる、と聞けば確かにそうだ。早苗ちゃんはいい子だし、西田さんだって狙ってたんだし。なに背負ってたんだろ、俺。
 余計なことを考えてたら、フロアチーフの罵声が飛んだ。
「おらおらっ、河田、ぼけっと女のケツ見てないで動くっ!」
 そんなことしてねーだろ、フロアの女の子たちに失笑買ってるじゃねーか。絶対気に食わないんだよな。俺のほうが前から働いてて、この店に慣れてるから。まぁ、確かにぼけっとしてたけど。
 そこへオーダーを取ってきた早苗ちゃんが現れた。
「聡くん、いい子いた?」
 にやっと笑って覗き込む。
「なんだよー、俺は女の子なんか見てないって!」
 考えていた本人に突っ込まれ、無性に腹が立ってすぐフロアに出た。あとは話すこともなく、閉店する頃には彼女は上がっていた。ロッカーで着替えながら、何で今日は腹の立つことばかりなんだと思っていた。そうだ、あの倉庫の会話を聞いてからだ。俺は何に腹を立てているんだろう……。
「河田、ちょっといいか」
 振り向くと、ドアの所に西田さんが立っていた。

 俺は西田さんと何故かファミレスで茶をしていた。本当に今日はいろんなことに出くわす。厄日か? いや、意味はちょっと違うか。
「河田、聞いちまったのか?」
 聞きづらそうに、それでも出来るだけ軽く聞こうとしている西田さんの空気が読めた。カップを持とうとして、取っ手が逆になってて慌てていた。こりゃあ、何をですか?、なんて聞いたら意地悪過ぎるだろうと、やめた。
「すんません」
「そうか……。てっきり彼女はフリーだと思ってたからなぁ」
「ですよね、あんなにバイト頑張ってるし、デートなんて雰囲気なかったですよね?」 俺は聞いてしまった手前、西田さんを慰める立場に回っていた。
「俺、上手く逃げられたのか? って気もしてな」
 一瞬、どう返事していいか迷ったが、俺は思ったことを口にした。
「いや、いるんだと思いますよ。俺に好きな人がいないと言ったら『残念ね』って言ってましたからね」
「そうか……。やっぱりいるのか……」
 いない、と賛同すれば、西田さんが丁良く振られたことになるし、いればいたで、どちらにせよショックなのだ。
「まぁ……、聞いたことは黙っててくれよな」
 俺だって、チーフならともかく西田さんの事を言うつもりはない。これが自棄酒とならずに、ファミレスのコーヒーでがぼがぼになってしまうのが西田さんの生真面目さなんだろうな。結局俺は終バスを逃がして、歩いて帰った。

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