Sunset-blues

letter 11

 蒸し暑い人ごみを抜けて、店に辿り着く。
 まず店のクーラーを入れて、ロッカーの扇風機を回す。

「はぁ……、年を取ったものだな」
 一人きりのカウンターで、氷水を一杯空けて呟いた。
 ここ数年、とても暑かったり、とても寒かったりすると、自分の体力と言うか、生命力に対して不安になる。ほんの5年程前までは、もう無茶は出来ない、と言う台詞の奥には、時を重ねた臆病さや、大人の節度や、精神的な部分があったのだが、最近、身体的な理由から思うようになっている。情けないものだ……。

 フロアの掃除を終わらせ、店先に打ち水をしようと表に出ると、なんとも品の良い、淡い藤色に白髪を染めた老婦人が立っていた。薄茶色のスカーフが年齢を刻んだ首を包み、留め金についたクリスタルが、まだ高い日に光っていた。
「ここは芙美さんのお店ですか?」
「はい、そうですよ。ママはまだ来ていませんが」
「やっぱり……。ふぅちゃん立派になって……」
 その婦人は、さっき拭いた『club letter』の看板を、小さい子供を誉めるように撫でていた。
「立ち話もなんですし、中にお入りください。暑いですから」

 婦人は、ママが集めたアンティークの品々をゆっくりと眺めて、サイドボードの前で立ち止まった。
「冷たいお茶を入れましたので、召し上がってください」
 言った声も聞こえないようで、ガラスの向こうを凝視している。
「これだわ……」
「どうかなさいましたか?」
 近寄った私に、彼女はハッと振り返ると、黒いベルベットのケースを指差した。
「この、インカローズのハットピン、私の店に置いてありましたの」
 ケースの中には、ピンクに黒い文様の浮いた大粒の石を繊細な錫の細工で縁取りしたピンが飾ってあった。婦人は懐かしそうに微笑みながら、近くにあるソファに座った。私はそのテーブルにお茶を運び、ボードからケースを出した。

「当時私は銀座でアンティークの店をやっていましてね、ふぅちゃんはいつもこのピンを見に来ていたんです。私も苦労して手に入れた大粒の班入りでしたから、値も張りましてね。最後は溜息をついて、帰っていきました」
 婦人はそう言って、ケースに収まったのピンクの石を見つめていた。
「と言う事は、ママはこのピンをどうやって手に入れたんですか?」
 私は素朴に質問した。若いころのママは給料が入っても、ドレスと、お客様へのプレゼントや電話代でほとんど残らなかったと聞いている。
「ふぅちゃんの熱意に折れて、お預けしたんですよ」
 遠くを見つめながら、婦人は懐かしそうに笑った。

「おはよー暑いわねー今日も。来るまでに疲れちゃっ……」
 店に入ってきたママは、その婦人を見て言葉を飲み込んでしまった。
「まぁ!夢みたいだわ!」
「ふぅちゃん、元気そうね」
「マダムも、お元気でいらしたのね。お店が急に無くなってしまって。どうされているのか心配してたんですよー、嬉しいわ、逢えて」
 ママは婦人の手をとって、涙ぐんでいた。その手を見て、婦人は言った。
「これ、今もしてるのね。ふぅちゃん」
 それは、ママの手首の傷を隠す、腕時計だった。
「ええ……、あれからずっとしてるんです」
「そうなのね。あの時は辛かったわねぇ、ふぅちゃん」
「あの時、マダムがいなかったら、もう一度死んでました……」
 そうか。この人はママの一件を知っている訳だ。私はママの分の緑茶を入れて、テーブルに置いた。

「時を重ねていくものは美しい。無駄に費やすものは価値がない。でも、生きている時を自ら潰してしまったものが一番醜い、って言われましたよね。この時計を見ると、いつも思い出すんですよ」
 ママは時計を外して、婦人に手渡した。傷跡が白く浮かぶ。
「丁寧に生きてさえいれば、何だって美しくなるんです。体のガタはね、時をゆっくり歩けば済む事だけど、時を重ねた美しさだけは、作り出すことが出来ませんからね」
 婦人は文字盤を撫でながら、いい時計ね、と微笑んでママに返した。
 と、ママはテーブルにあったケースに気がついた。

「あ! このピンのお代!」
 慌てて立ち上がるとカウンターに駆け寄り、バックの中を漁っている。
「あら、いいのよ、ふぅちゃん」
 婦人も立ち上がってママに手を振っている。
「その代わり、たまにここへ見に来ていいかしらねぇ」
「もちろんです! あ、マダムも一杯召し上がっていったら? マダムが実はイケるって、私知ってるんだからぁ」
 目頭に少し涙を残して、ママはいつもの笑顔になった。

「お待たせいたしました」
 私は婦人のスカーフ色したカクテルを滑らせた。
「あら……、懐かしいわ。ミリオンダラーね」
「御名答。さすがは銀座でお店を出していた方ですね」
「伊達に歳を取ってはいないでしょう?」
 グラスに添えた指には見事に整えられた爪。感服した。
「ええ。素敵に重ねてらっしゃいます、ね、ママ」
「そりゃそうよ、マダムは私の目標だもの」

 こりゃ随分と高い目標だな、と私は齢の美しさに乾杯した。

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