熱帯夜の赤い月

vol. 2

「言っとくけど、私も嶋ちゃんも同じ系統だから絡んだことないよ?」
 私のそんな怯えが見えてしまったのだろうか、彼女は付け加えた。
「そんなこと……。私だって、あの人の恋人って訳じゃ……」
 そんなこと一度も言われたことがない。いつも馬鹿にされるだけ。
「嫁に貰うなら不細工ぐらいが丁度いい、みたいな事言ってたから、一体どんな人なんだろうと思ってたけど……、可愛いじゃんねぇ?」
 その、誉め言葉ともからかいとも取れる話し方は、嶋村のそれに良く似ていた。

 私が来ている、と麗子さんに呼び出された『文』という女性は、顔に痛々しい包帯を巻いて事務所に現れた。当然休養中なのだろう。
「お客様が顔を踏んでいる時によろけてしまって。嶋村さんがお医者さんまで運んでくれました」と、彼女は照笑いした。
 顔を踏まれる? 女の顔を踏む? それは仕事として、しなければいけない事なの? 暴力じゃないの? そして、そのことで彼女は笑った。それも恥ずかしそうにはにかんだのだ。

 私は目の前に出されているお茶の、緑色をずっと見つめていた。麗子さんのエナメルの赤、文さんの痛々しい白。狭いこの部屋で、その世界を甘受してしまいそうな自分を食い止めていた。冷めたお茶の緑だけが、私を日常に戻してくれそうな気がした。麗子さんはにやりと笑って文さんに目配せをした。
「あらぁ、嶋ちゃんしなかったの? まぁ貴女は普通の仕事もしてるし、遠慮してたのかもしれないわね。文ちゃん時どうだった?」
「……嶋村さん、踏むの好きだったと思います……」

 咄嗟に私は立ち上がっていた。確かに嶋村は風俗にも行き、私を使うことをしても必要とはしていなかった。一人暮らしを満喫し、都合のいい私がいる、それだけのことだった。でも、私は真意が知りたかったのだ。彼にとっての私は何なのか、私の存在価値がどの程度だったのか。それを知りたかったからあいつの足取りを探しに来たのに、なんでこの人たちにまで私の扱いをからかわれなきゃいけないの。 

「祥子さん! 悪気はないのよ麗子さんも!」
 急ぎ足で階段を登る背後から、包帯のせいでくぐもった文さんの声が聞こえた。振り返ると、見上げている顔にさっきの笑う目はなかった。
「あんな風にしか自分の気持ち言えない人たちなの。馬鹿にされてると思ったかもしれないけど、プライドが高いから……、素直になれないだけなの。麗子さんも悪戯心って言うか……、それがあの人たちの表現なの。嶋村さんも貴女をきっと大切にしていたのよ。彼なりのやり方で」
 柔らかな花柄のワンピースの上に、余りに不似合いな包帯が地下の明かりに浮かんでいた。それでも貴女はこの仕事をするの? 私は嶋村が消えたことも何も解らず、ただ混乱して彼女の言葉を受け入れる心のゆとりはなかった。
「私は好きなら好きだと言える、勇気ある人こそが、プライドに値すると思います」
 私は、文さんの運ばれた病院の名前を知る以外は、みすぼらしい自分を暴かれるだけで何の収穫もなかったことに落胆しながらその店を後にした。

「貴女ははまたここへ帰ってくるわ」
 文さんの呟きは、私の耳には届かなかった。


 その病院は、どうやらこの街で夜働く人の中では有名なところらしい。ひっきりなしに客が来ては、消毒液ときつい香水の匂いをかき混ぜていく。仕事帰りの私の格好は患者の中でも目立つようで、受付の年配の女性は、まるで業者か保健所の職員を見るような顔をしていた。
 その医者も嶋村のことは知っていた。覚えていた、と言うより知り合いであるようだ。
「え! 嶋ちゃんがいなくなったって、どういうこと!?」
 危うく椅子から落ちそうになる医者に、私は救われる思いがした。そうだ、普通失踪したと聞いたらこうなるものだ。いくらあいつが一風変わっていたとしても、普通は驚くのが当たり前だ。私は肩の力が抜けたように、診察椅子に座りなおすと、今度は言葉が出なくなってしまった。

「どういうことって……、そんなの私にもわかりません……」
 ただ堰を切って涙が溢れてくるだけで、どうしたなんて解る訳もなかった。誰も知らない、そして誰にも安心できない緊張感が切れた時、やっと私はいなくなった悲しさを実感した。医者は黙って泣かせてくれた。
 医者の話では、あの店だけではなく、ここで働いてるならあいつに話し掛けられたことがない人はいない、と。それは想像がつく。あいつは会社でも得意先でも「よお!」と声をかけ、他愛ない話に興じる。そのくせあいつの冷たい目で見ているのは相手の隙だけで、ひとしきり雑談した後で「じゃ俺急いでるから」と勝手に切り上げて相手を置き去りにする。なんとも失礼な奴なのだ。 

「『ほていや』には行ってみましたか?」
 思い出したように医者は聞いてきた。
「それはどこですか」
「嶋ちゃんがここに来たら必ず行く定食屋なんだよ」
 医者はその足で店まで連れて行ってくれた。頭を下げると医者は私の両腕を掴み、顔を覗き込んで言った。
「いいかい。嶋ちゃんは何か事情があって君に黙っていったと思うんだ。でも説明出来ないってことは、君を巻き込みたくないって言うか、守るためだと思うんだよ。だから危険を感じたら深追いは止めて、嶋ちゃん待っててあげて、な? あいつ多分君しかいないんだから」 

 また泣けそうになったけど、存在価値はあの人の口から直接聞きたかった。
「ありがとうございます」
 私は『ほていや』の暖簾をくぐった。


「そうなんだってねぇ、さっき麗ちゃんが言ってたわぁ」
 割烹着が馴染み、いかにも人の良さそうなおかみは心配そうに返事した。そうか、彼女もここにはよく来るんだ。彼女と定食屋と言うのがそぐわないような気もしたが、あの人も鯖の味噌煮とか食べるんだろうかと思ったら、先程の事務所での威圧感が少し和らいだ。彼女も気を抜く場所があるのね……。おかみはぬか漬けをお茶請けに出してくれた。
「何処か行くとか、言っていませんでしたか?」
「厄介なことになった、とは言ってたことがあるんだけど、あの嶋ちゃんのことでしょ、ホントなのか冗談なのかは判んないよねぇ」
 本当に。何でも本当のような気もするし、全てが嘘のような気もする。

 電車もなくなるしそろそろ帰ろうか、と時計を見ていた時、息を切らした文さんが入ってきた。
「オーナーが嶋村さんから預かってたそうです。先生に聞いたらここにいるって言うから……、間に合って良かったわ」
 一息ついて、ほっとした表情で封筒を差し出した。その封筒には丁寧に割印が押してあった。

<ここに電話をくれ。この番号は誰にも言うな。店の奴にも、会社にも言うな>

 私は慌ててその手紙を畳み、ありがとうございました、と文さんに伝えた。中に何が書いてあるのか文さんは知りたがったが、仕事のことです、とだけ返事をしておいた。 

< vol. 1  vol. 3 >


inserted by FC2 system