vol. 6
私は、もう電車もない夜の街を、当てもなく歩いていた。
泣き叫ぶ。そんなことなら今まで散々、嶋村の前でして来た。その度に自尊心は壊れ、情けなくてやりきれなくなった。そうしてでも、あいつの隣で1年頑張ってきたんだ。それが愛だと思ったから。いつか愛し合えると思ったから。夜風は身にしみた。私は橋の上で、黒く流れる川を見ていた。底は見えなかった。深そうでもあり、水面に立てそうでもあった。
「祥子」
背後からの聞きなれた声に、咄嗟に逃げようとしたけれど、痛いほど腕を掴まれた。抱き締めようとするその腕を振り払い、私は思わず頬を打っていた。
「あ……」
「効いたな」
手のひらを呆然と見ている私に、あいつは苦笑した。
川のほとりを歩いていた。街灯は必要以上に明るくて、二人の距離を無意識に離しながら、あいつのジャケットを青白く照らしいてた。
「……、あの男な。俺が25の時高校生だったんだ。結局中退して、一人出てきて働いて。いろんな思いしたと思う」
欄干にもたれながら川を眺める姿に、どんなに若く見えても嶋村も年なんだな、と思っていた。少し背中が疲れていた。
「母親は小さい子供連れて、スナックで働いてた。事情知ってたからな、様子見に店に行くと頭下げられて、俺も気が引けていかなくなってしまったが……、たまに娘が来てると何も知らずに懐いてくれたよ」
「まさか」
「そう。それが文子だ」
同じ時間、文もまた兄が聞いた真実を聞かされていた。
「嘘……」
嶋村が父親の死に関わっていたと言う事実は、余りに衝撃的で、文は信じることが出来なかった。文の声が部屋の中に乾いて響いた。
「だからか」
麗子は天井に煙を吐きながら、遠くを見ていた。
「嶋ちゃん、アンタの素性聞いて、すごい驚いてたもん。オーナーに聞き直してたぐらい。知った名前なのかと思ったけど、そういうことかぁ」
「……知ってたの? 嶋村さん」
「多分ね。知ってたからここへ呼んだんでしょ」
文はがっくりと肩を落とした。兄であるその男はそんな文の様子を見ながら、やはりソファーで俯いていた。父が嶋村を恨んでいなかったこと。嶋村が家族の為に生きろと言ったこと。そして、もし嶋村が文のことを知っていたなら、そんな形で残された家族を知られないように見守っていたこと。
「詫びなきゃいけないのは、俺の方か……」
空のグラスを目の高さまで持ち上げ、揺らしながら麗子が言う。
「今頃嶋ちゃんがあの子に詫びてるわよ……、もう一杯飲む?」
麗子もまた、祥子が投げた『弱虫』と言う台詞に、何かを感じているようだった。
嶋村は職場復帰した。
拉致された、と言ってはみても、あいつの性格上話半分で相槌をもらう。それをあいつも解っていて、行く得意先ごとに拉致の理由が違うのだ。「女に追われた説」「マフィアに間違えられた説」「大手企業のヘッドハンティング説」まで、よく思いつくものだと感心する。それが彼の隠れ蓑なのだろうが。
「文が辞めるって言うのよ……」
私は麗子さんから連絡を貰い、あの店にまた行くこととなった。行くと麗子さんは珍しく気落ちしていた。その弱さに、私はどう答えていいのか、しばらく言葉が出なかった。やがて休憩室に文さんは現れた。
「祥子さん、この間はごめんなさい。あんなに傷つけてしまって……」
バスローブを纏う文さんの頬に、青い痣を見た。
「あれから嶋村さんと話しました。『どうしても、自分に懐いていた頃の小さい娘にしか見えない』って……。父の生きていた頃の話をたくさんしてもらいました。これからはお父さんって呼ぼうと思ってます」
文さんの決意には、晴れやかな中に少しの惜別の寂しさが光っていた。
「文さんの門出を祝ってあげましょうよ……。私、仕事とはいえ、傷つくのを見るのは刹那過ぎるの……。もう文さんは踏まれたりしなくても、自分を見つけることが出来たんだから」
その顔につけられた青い痣は、今の文さんには似合わないと思った。
「……、そうね。この仕事は自分に必要なくなったら出来ない仕事だから」
麗子さんはそっと文さんの痣を撫で、名残惜しそうに見つめていた。
私たち三人は「ほていや」に行った。
嶋村の事件によって引き寄せられた私達。まるで違う世界で過ごしてきた3人の女が、あの厄介者の嶋村と言う男によって同じ時間を過ごしている。
「何処がいいんだかね」
麗子さんは言う。
「我が侭で自分勝手で優しさの欠片も見せないのにね」
私も続けて文句を言う。
「でも何処かで……、信じられるんです。一番奥の方で」
文さんが呟いた。そうなのかも知れない。不器用な隠れ蓑の内側にある、あいつの中身は酷く素直で、強く輝る原石なのかも知れない。それを見つけてしまった私達が、こうやって振り回されながら笑ってる。
そこへ、ほていやのおかみが温かな料理を運んでくれる。
「ほら、文ちゃんの好きな筑前煮。何処へ行っても頑張るのよ」
その笑顔が、文さんそっくりだった。もしや――、それは言わないでおこう。美味しそうに食べる文さんの目が、少し潤んだ気がしたから。
帰り際、麗子さんは言った。
「弱虫、は効いたわよ。アンタあたしより強いのかもしれないわ」
「ああ……、つい勢いで。ごめんなさいね」
「あたし達、いい友達になれる気がするわ」
麗子さんが差し出す手に、私は文さんの手を取って3人で握手した。
「あいつの愚痴を聞いてもらうわ」
「あーあ。惚気話聞かされるなんて、女王も墮ちたもんねぇ」
私達は笑いながら、オレンジに光る秋の月を見上げていた。
電車の音が軋みながら部屋に入り込んでくる。
「はい。これおかみさんから」
「おっ、筑前煮だろ?あそこの美味いんだよなぁ……、作り方ちゃんと聞いとけよ」
「何言ってんだか……。ビール置いとくね」
あれが美味いこれが美味いとしゃべりながら、決して品の良くない食べ方を頬杖ついて見ていた。身長だって高くない。顔だっていい訳じゃない。大金持ちでもなければ、甘い言葉をくれるわけでもない。くれるのは我が侭にぶつけられる、人を試すような言葉だけ。
何でこの人でなきゃ駄目なんだろう……。
「なんだよ、まじまじ見るなよ。食べにくいだろ」
「うーーん。なんでこの人と一緒にいるんだろうと思って」
私は次のビールを取りに台所へ立った。嶋村は私を見上げながら呟いた。
「その服。似合う」
そんなこと言われたこともなかったので、私は一人で慌てていた。
「えっ、そんな今まで私の格好なんて気にもしてなかったくせに」
私はビールの栓を抜こうとしたが、慌ててしまって上手く開かない。
「貸せ」
嶋村は難なく栓を空け、そのまま私のグラスに注いだ。
「あっ、ごめん……」
「お前、俺といるといつも怒ったり慌てたり、忙しいなあ」
嶋村の笑顔の言葉に、はっとした。私はこの人といるときが、一番自分なのかもしれない。それを心から認めた時、私は初めて嶋村の前で心から笑えるのかも知れない。ほていやで飲んでいる分、一人で酔いが回ってきたような心地よさの中で、ふわふわと彼のおしゃべりを聞いていた。
「うん。やっぱりその服は似合う。あの店に行くのに、気合入れたか?」
「気合なんて。私、嶋ちゃん信じてるし」
嶋村は、からかうような言い方に言い返した私を手懐けようとしたのだろうか。崩した足の下から座布団を引き抜いた。酔っててバランスを崩した私を、あいつは頭の下に手を置いて一緒に倒れ込んだ。
「でも、その服は俺の足元でぐしゃぐしゃになってるのが一番似合う」
窓の外はもう、熱い微風は吹かない。風はこの部屋の中で熱を増して吹いていった。やがて風が吹き抜け、嶋村は私のうなじに囁いた。
「もう、俺で諦めろ」
赤い月は輝きながら、今私の中で満月を向かえた。