Midnight-blues

 午前2時。バーテンダーの1日が終わる。
 店の女性たちを誘うついでに一緒に寿司でもと、お客様に声をかけられることもあるが、私が付き合いの悪いことを知っている常連の方はまず声をかけない。
 ママや他のホステスさんたちのように、駆け引きだとか計算などは男の私には全く関係ないのだが、何故か、一日の仕事が終わった時の一人の時間が好きなのだ。
きっと未だにヤモメ暮らしなのもこの真夜中のせいなのだと、それでも愛しい悪魔に振り回されるような嬉しさを感じて、60年の時が過ぎた。
 最近特に、一人の店をと言われる事が多い。
「いい年なんだし、そろそろ落ち着いた店はどうだい」
 昔から一人でやっている友人や、店の常連客も勧めてくるのだが。


 凛と風も凍る日だった。
 当時から朝に寝て昼に起きる生活をしている私に、その朝日は眩しかった。とてもまだ蓄えもなかった私は、オーナーに借りた服を着て、5年ぶりに故郷行きの列車に乗った。
 久しぶりに嗅ぐ、古い木の匂いがした。

「あのね。兄さんが」

 妹の声は受話器の向こうでいろんなことを話していた気がするが、今となってはその言葉だけが残っている。
 いつもいつも長男風を吹かす、7歳違いの兄だった。外でも妹や私が何か言われたとなれば、相手の話もろくに聞かずに手を出しては、感謝を求める兄だった。
「どうせ俺が継がなきゃならねえんだから」
 父と大喧嘩しても、最後は切り札を出しては我が侭を通した兄だった。

「何処で」

 線香の匂いが降って来るような六帖間。まだ何でも出来た年頃であろう兄は、額縁の中で笑っている。
 母は呆然と白い布の掛けられた棚を見ながら何も話さなかった。
「町のスナック。バーテンと喧嘩しちゃったんだって。出された酒が不味いとかなんとかで……。バーボンの瓶で頭を一撃だったって。兄さんらしいでしょ」
 妹は遺影を見つめながら、苦笑を浮かべた。私のいない間に、きっと厄介も随分背負ったのだろう。何処か突き放した言い方が、焼けた畳の上に余韻を残した。
 さほど弔う客もなく、父は黙って一升瓶を手酌していた。
「だから洋物の酒は嫌いなんじゃ」
 彼もまた、酒に頼る男であった。その背中は飲む度に虚勢を増して、家族を引き離していった。

 次の朝、白い煙に手を合わせた足で東京に戻る私に母は言った。
「真。お前は酒が好きかい」
 兄の仇である商売を始めていたことは、とうとう言えなかった。
「ああ。惚れてるかも知れない」
 喪服の半襟が白すぎて、遠くの山に積もり始めた雪を見ながら答えると、母は私の腕を掴み、小さい子供に言い聞かせるように揺さぶった。

「いかんよ。酒に惚れちゃいかん。男は女に惚れてこそ男なんだから。いいね」

 それは息子を亡くし、夫を骨抜きにした酒への確執だろうか。父はその後肝臓を壊し、布団の上だけの生活を3年ほど送った。その時の母の、悠然とした顔を忘れることが出来ない。白い割烹着から伸びた腕は決して健康的ではなかったが、酒から取り戻し、もはや自分無しでは生きられない夫を見る目は、献身的というよりもはや恍惚ですらあった。
 父がこの世を去るまで、私は故郷へ帰らなかった。

 あの時の母の年齢と似たような歳になって、言いたかったことが今は解る気がしている。バークラブという女性のいる店でしか働かないと決めたのも、酒だけに溺れてしまうのが怖かったのかも知れない。もしあの若かった自分が一人で店を開けたとしても、ここまでやってこれたかどうか、想像もできない。
 あの柔らかなドレスや、ホステスさんたちの優雅さや、彼女たちが織り続ける男と酒を結わく美しいリボンのお陰で、私はカウンター越しに人間を愛することが出来たのだろう。

 そしてまた。
 結局私は、酒と共に笑い、歌い、生かされている。

「酒に惚れてしまったよ、母さん。遺伝だと思って諦めてくれ」

 いつもの止まり木に向かう夜道を、星が案内する。
 愛しい天使の誘いだけは、幾つになっても断れない。


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