桜咲く

 空が高くなった気がした。
 今までは、向かいのビルが邪魔して翳りはじめた時間なのに、公園にはまだピンクの花影が風に揺れている。巨大な日時計は春時間になった。

「今日からここですか」
 見覚えのあるスーツ姿の男が、不器用に口角を上げていた。そのスーツは少しくたびれて、日に当って褪せて見えた。
「はい、やはり窓があるのはいいものですね」
 厄介払いをされた哀れな女を見るようなあの人を、私の方が憐れに思ってる事をあの人は知らない。

 何故だろう。3ヶ月前までは、そのスーツに怒りすら覚えたのに。
 私だったらきちんとハンガーに掛けて、型崩れしないようにするのに。疲れていればマッサージもするし、胃に優しいものを作ってもあげるのに。
 部屋に来るあの人の愚痴や甘えに、一喜一憂していた私。

 確かにあの日、私は会議室には呼ばれたのだ。
「君のプライベートな事なのは解っているのだが、実は、今田君の奥方から会社に電話があって……。下手な噂になるのも困るだろうと……」
歯切れの悪い人事の上役に尋ねた。
「で、当の本人はなんて言ってるんですか」
「いやぁ……。頭下げられてしまって……」
 百年の恋が冷めるとは、こういう事を言うのだろう。自分から言い出せずに、会社の人間に別れ話をさせる男だったのか。私は、もはや引き摺るどころか、今までの月日が薄汚れて見えてきた。
「奥さまはなんか勘違いをされているようですね。私は課長とお付き合いなんてしていません」

 そして私はここへ異動になった。あの話の席で、どうせ動くことになるなら少し上の昇進試験を受けたらどうかと、上役が提案してくれたのだ。私はその評価と心遣いに感謝して、部屋の模様換えをした後、試験に没頭した。内示の時には涙ぐんだ。
「異動の際の報告は、役職を伏せてもらえませんか」
 人事は理解してくれた。今頃、辞令が貼り出されているだろう。私がその肩書きを追い越した事を知って、あの人はどう思うだろうか。

 桜が散りはじめている。
 客先に二人で行った時、初めてこの人を好きだと思った。その背中には花びらが降り注いでいた。

 ああ、私、大好きだったんだ。

 私はシャツのボタンを2つ外して、久しぶりに笑った。

〔了〕


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