時計は無情に進んでゆく。
自分の恋慕にも非情になるしかない。
「じゃ帰るね」
「ああ……。気をつけてな」
 そのままの、本当に余韻も体温もそのままの姿で
横たわり膝を撫でる手を、見下ろす事が出来ずにしゃがみ込む。
「早く行きなさい、離れがたくなるから」
「うん。メールしてね」
 その言葉は聞こえているのか、目を閉じて、眠ろうとしている。
それを妨げない為にゆっくりとドアを閉める。

 都会の街は人が絶える事がない。
ホテルの回転ドアを一歩外に出れば、家路を急ぐ人波の藻屑。
終電を気にしながら、明日の朝食を思い浮かべる。
「卵……、あったかしら」

 電車は思ったより人が乗っていた。
笑っている人は誰もいない。
座っている人はみな目を閉じ、立っている人はつり革にぶら下がり
手すりにしがみつき、ドアにもたれる。
みんな無表情。みんな抜け殻。「停止」のままの、虚脱な風景。
やがて乗客の疲労と1日の終焉を吐きだすように
ドアが開いて一緒に降りる。

 駅前のコンビニで
ふと目に留まった「温泉特集」の雑誌。
「…………逢ったばかりじゃない」
手に取ると日常に戻れない気がして、表紙を眺めて諦める。
手にしたのは、卵とカップスープの素。

 いつもの私。
コンビニで食材を買う事すら、贅沢に思えてしまう私。
朝になればエプロンの制服を着て、埋もれてゆく私。

「着いたかい」

 震える携帯から飛び込む愛情。
眠ってはいなかったのね。
黙って背中を押したのね。
埋もれていく膝を、惜しむように文字で撫でられて
「巻き戻し」された私は、数時間前からリプレイしている。
続きが見たくて、現実(いま)に目を瞑ろうとするけれど。

 窓に映る私は。
帰りが遅くなって、朝食に足りないものを物色している
髪のコシもなくなった、地元の主婦だった。
 レジを済ませて、夜風に向かってメールする。

「着いたよ。卵、買ってたの」

 揺り起こされる朝が来るまで、おやすみ、本当の私。
袋の中で卵のパックが、歩く度にギュッギュッと鳴った。

〔了〕

第3回うおのめ文学賞掌編部門1位


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