印鑑

 その初老の男性は、粋、と言う言葉が服を着ているような人だった。その肌や瞳の色は日本人より透明で、どんな明るいアスコットタイを持ってきても決して負けることがなく、年輪を刻む皺さえも、笑い皺にしか見えなかった。

 お酒は一滴も飲めなくて、注射の消毒用アルコールですら皮下から酔ってしまう体質だった。が、お酒の席は大好きだったようで、3年前、糖尿を患って入院した時も、前日に接待先とマージャンしていたそうだ。
「そーなんだよ、腰が痛くてさぁ。横にいた芸者さんに牌切らせたよ」
 そういって微笑んでいた。引退して、今はテレビを見ている毎日、と言うけれど、大手商社を退職後、株の動きを見て何千万という金を動かす仕事を興していたのだった。

 そんな人と行きつけの喫茶店で知り合ったのも不思議な縁だけど、その紳士が、まだ社会に出て間もない私を気に入ったのはもっと不思議だった。他愛もない話をするだけなのだが、決まって
「勿体無いなぁ。キミはもっと大きな仕事をするべきだよ」
と言った。その人の言葉は、いつも私に自信をくれた。

 ある日、私は仕事でミスをしてしまい、落ち込んでいた。店に入っても誰とも話さず、黙って奥の席で珈琲をすすっていた。ミルクを入れる気分でもなかった。

 後から入ってきたその人は、コツコツと足音を響かせて隣の席に座り、ちょっと私の顔を窺っただけで、やはり黙って新聞を読んでいた。やがて、話し掛けるともなく、こんな話をはじめた。

「印鑑はね、欠けると縁起が悪いように思うだろう? でも、本当は偽造されなくて一番いいんだよ。その人の証、と言うのかな。人間はそうやって、欠けたり傷がついたりしながら、誰にも真似が出来ない、自分だけの「証」を作っていくものだと思うんだなぁ」

 それからひと月ほどして、その人は現れなくなった。奥さんを亡くして7年ほど経っていたし、息子さんがいると言っていたから同居でもしたのだろうかと噂した。今も、その後を知る人はいない。

 ふっと、ブラックの珈琲を飲んでいる自分に気がついて。土地も違うこの喫茶店で、フローリングに響く足音を聞いた。その音は私の隣で止まることはなかったけれど。

 あのね。今日振られちゃったんですよ。また一個傷が出来ちゃいました。だから、あの人に言ってやって下さいよ。私にも、また言って欲しいんです。
「勿体無いなぁ」って。

 この傷を、誰にも真似できない、私の「証」にするために。

〔了〕


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