混ざり合う風

vol. 4

「上条、さん?」
 数時間前別れたばかりの刑事だった。向こうもかなり驚いた様子だ。
「あ、あなたでしたか、いや、誰が倒れてきたのかと……。どうしてこのビルにいるんですか」
 またも質問口調で、この人はいつもこんな感じなのかと思うと、急に笑えてきてしまった。
「なんで笑ってるんですか、私おかしなこと言いましたか」
「いえ、もうね、寝てないから多分ハイになってるんです、私」
 そう答えながら、この人はこんな大きな体して、親にも「どうして今日は肉じゃがなんですか」とか聞いたり、彼女にも「どうして私が好きなんですか」とか言ってぶち壊しちゃうんだろうとか、考え出すと止まらない。大理石張りの広いエレベーターホールで、眩暈起こしてふらふらしながら支えてくれた人の顔を見て笑っている自分が、かなり怪しい存在なのは解っている。でも、どうにも抑えきれずに半泣きになって笑ってしまった。
 なんとか笑いが収まって、やっと質問に答える気になった。
「ここに納品に来たんです。依頼されたロゴマークを届けに」
「そうでしたか。しかし偶然ですね、冴子さんの勤め先と同じビルとは」
 そうか。それでこのビルに来たのか。
「そろそろ昼も近いし、納品が終わったらご飯どうですか? 助けてもらっちゃったし」
 なんとなく、奥さんの様子も聞きたかったし、何よりこの刑事とはもう少し話がしてみたいと思った。


 少し早めに行ったお陰で、いつもは混んでなかなか入れない中華のバイキングに入れた。
「ここの角煮が美味しいらしいんですよ」
「へぇー、そうなんですか。あんまり食べ歩かないのでよく知らないんです」
 前に一度友達と入ろうと店の前までへ来たのだが、なんかボリュームがありそうで二の足を踏んでいた。この190センチはありそうな巨体を連れて行けば、私がそっと角煮をつまむだけでも元は取れるだろう。
 予想通り、角煮は美味しかったし、相手は皿を重ねていった。
「奥さんはその後どうなんですか?」
 新しく山盛りにされたエビチリの皿に半ば呆れながら、訊ねてみた。
「それがですねぇ……、全く覚えてないと言うんです」
 上条さんはそう言うと、少し椅子の奥へ座りなおした。彼の体重を必死に支える軋みが響く。
「えっ?」
「医師によると、かなりのショック状態で一時的に喪失しているんじゃないかと」
 よく、事故に遭った人がそう言う状態になる話は聞いたことはあるけど……。まさか刺した本人が覚えていないなんて。
「その場合、自白は出来ないって事になるんですよねぇ……」
「覚えていないですからね。でも、心神耗弱状態だったと主張される可能性もありま すんで、まぁ、職場でちょっと様子を聞いてみたんですけど」
 そこまで話すと、海老を一つ口に放り込んだ。背中を丸めながら厳つい手が箸で海老をつまむ姿は、なんとなくパンダとリンゴの縮尺にも似ていて妙に微笑ましかった。


 戻るとクラは起きていた。
「どう? アレで良さそう?」
 とっとと渡して結果は後で、なんて到着時間じゃないか……。
「あ、いや、担当者いなかったからさ。渡してそのままお昼してきちゃったんだ。でも連絡ないから大丈夫だと思う」
「ふぅん」
 クラは訝しげな顔で、ソファーから私を見上げた。それを見ない振りして、自分の席に急ぐと、机に「電話あり」のメモがあった。クラの字だ。なるほどね……。コーヒーを2杯入れて、ひとつはクラの前に、ひとつは空いてる席に置いた。
「はいはい、白状しますよ。偶然フォリアさんのビルで会ったのよ」
「で。どうなんだよ、捜査のほうは」
 クラは失敬なことを言う刑事、と言うイメージしかない様だ。私のようにあれからまた口を利いた訳じゃないし。
「奥さんね……、記憶喪失になっちゃったんだって」
「何だそりゃあ」
 一通り上条さんから聞いたことを繰り返した。犯罪を犯した人間もショックで記憶喪失になるものなのか、今ひとつピンとこないことも。
「解らんけど……。奥さんにしてはショックだったんだろ。しかし、何でミズは別れたいと思ったんだろう」
「そこなのよ。理由が解れば、何か解ると思うんだけど……」

「止めてよ!」
 ドアが開く音と同時に、遮ったのは美智だった。
「社長はさっき意識が戻ったばかりなのよ! そんなに詮索しないで!」
「みっちゃん……」
 美智も寝ていないのだろう。疲れが出ている顔の中で、眼だけが鋭く光った。
「千鶴さん、なんか刑事みたい……。あの刑事と何かあったんじゃないの」
 さすがの私も、これには黙ってる訳にはいかなかった。
「あのねぇ……。みっちゃんが疲れてるの解るし、ミズが今そんなこと聞ける状態じゃないのも解ってるわよ……。もしかしたら、みっちゃんが一番知ってるんじゃないの?」
「まあまあ。みんな寝てないんだからさー。今日は全員真っ直ぐ帰って就寝ーーー」
 気まずい空気を察したクラが、いつもの調子で切り替えした。それぞれがそれぞれの思いを仕舞って、一旦帰宅、となった。


 帰ってきてから、会社にかかってきた上条さんからの電話のことを思い出した。多分ランチの礼だろう、でも何か新しい事が解ったかもしれないと、もらった名刺を探して連絡した。
「星野ですが、お電話を頂いてたのに遅れてしまって……」
「ああ! どうもお昼は楽しかったです」
 話が話だけに決して楽しいものではなかった気もするけど、食べてる姿を思い出すと楽しかった気もした。向こうもそう思ったのか、社交辞令か……。そんなことはどうでもいいのか。
「こちらこそ楽しかったです。ありがとうございました。何か変わったことはありましたか」
「いえ……。相変わらず記憶はないままです。水沢さんもまだ事情が聞ける状態ではないですし」
 確かに、そんな半日で何かが変わる訳はないか。

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