好きな人

vol. 4

 思えばこれがはじめて2人で出かける約束なのに、随分とヘビーな中味だ。待ち合わせのテラスで、俺たちは背中合わせに座っている。やはり親子の対面にいきなり自分も参加するのは気が引ける。背中越しの早苗ちゃんは、私、解るかしら、としきりに口にしていた。
「向こうが働いてるとこ見つけたんだから、見落としたりしないさ」
「ううん。私が見て父親ってわかるかな、と思って」
 見たこともない肉親でも見れば解ると言うじゃない、彼女はそう言いながら辺りを見回している。
「きっと解るさ」
 根拠はないが、そう思った。
 やがて彼女のおしゃべりは止まった。見ている先は解らないが、少しして背後から椅子を引く音がしてウェイトレスが注文を尋ね、コーヒー頼む男の声がした。

 聞いた途端、なにか落ち着かなくなった。はじめて聞く声ではなかったのだ。何処かで聞いたことがあるその声を、何度も何度も頭の中で繰り返しながら、コーヒーを飲んでも、煙草に火を点けても、振り返りたい衝動と戦いながらずっと、記憶の中からその声の主を捜し回る。店か、誰かの親か、彼女の父親ぐらいの歳の男を片っ端から思い浮かべる。やがて……。

「ああっ!」
 大きな声を出してしまった俺に、彼女ももはや他人のフリをするわけにもいかなくなってしまった。
「聡くん、どうしたの?」
「あっ、いや……」
 覚悟を決めて彼女のほうに振り返ると、俺の勘は当たっていた。
「ど、どうも……」
 あまりにも一杯いる苗字だったおかけで思い出しもしなかったが、確かに彼女もその男も佐藤なのだ。
「河田……。なんでこんなところに……」
 こんなことがあるのだろうか。男は、俺のゼミの講師だった。

 しかし、この空気をどうしたらいいんだろう。俺はこいつの偉そうな口ぶりが大嫌いで、こいつも俺を劣等性扱いしてお互い避けあってきた。いつもゼミの間は胃が痛かったし、来年はマジで違うゼミに行こうかと考えていた、いわば天敵なのだ。親子とは言え、どうしてこんなイケスカナイ奴の遺伝子から早苗ちゃんが作られたのか。不機嫌な顔をしながら、その不思議からパニックになっている俺の背後で、早苗ちゃんの一撃が炸裂した。

「何故母を殴ったんですか」

 彼女はいつか見せた、あの携帯を俺の顔面に突きつけた時のような目をして問いただした。俺が奴と知り合いだったことに勇気が出たのか、それとも俺なんかお構いなしに最初から投げるつもりの言葉だったのか、それは彼女にしか解らないが。
「済まなかったと思っている。あの頃はまだ公立の教師だったが、仕事の鬱積をつい彼女にぶつけてしまった。甘えていたんだ。仕事柄というか……、どうしても離婚に応じたくなくて……」
 そこまで聞いて、この身勝手な男に危うく手が出そうになった。たちの悪い客ならまだ我慢も出来る、でも翔太じゃないが彼女の人生をここまで捻じ曲げておいて、甘えていた、で片付けようとするこいつだけは殴らずにいられない。
 それを遮ったのは早苗ちゃんだった。

 「母と離婚してください」

 冷静に響いた声は、誰の甘えも許そうとはしていない。誰の言葉も挟めないほど、身体からバリアが張り巡らされている。彼女が差し出す緑の薄紙は、既に半分埋まっていた。

「私、もし、自分の父親がとても悔いていていたらそのまま帰ろうと思ってたんです。でも駄目。やっぱりあなたが許せない」
 心なしか震えながら、毅然と振舞う彼女が痛々しかった。父親は死んだと思ってここまで健気に生きてきて彼女が、何故血の繋がっている父親に縁を切る宣告をしなくてはいけないのか。そして不服ながらも卒業の為にこんな奴のゼミを今まで受けていた自分までが情けなくなった。

 2人だけになったテラスで、彼女はしばらく放心状態だった。
「……強いな、早苗ちゃん」
 2杯目のコーヒーは少し苦い気がした。
「元々父親なんていなかったんだもん。あーあ、すっきりした。母さんきっと泣いて喜ぶわ、これ持って帰ったら」
 奴の書いたその紙を嬉しそうに眺める顔は、明るくて元気ないつもの早苗ちゃんなのだが、女の凄さと言うか、後ろ側を見せられて俺はちょっと怖気づいていた。

「河田、彼女元気になってよかったなぁ」
 西田さんは俺に向かって言うけれど、それは自分が嬉しいんだろう。なんとなくだけど、西田さんの不器用な性格も苦手じゃなくなってきた。翔太は相変わらず美奈ちゃんと笑いあってはいるが、言えてはいないようだ。
 それは俺も同じ。いくら他の連中が知らない早苗ちゃんの顔を知っているとは言え、惚れているくせに結局何も肝心なことは言えてないんだから。

 オーダーを取ってきた早苗ちゃんが現れた。
「聡くん、いい子いた?」
 にやっと笑って覗き込む。
「まぁな。これでおあいこだろ?」
 にやっと笑い返す。
「おあいこって……、ああ、好きな人のこと?」
 彼女はあっさりと俺の最大の関心事に触れた。
「お、おぅよ。俺に好きな子がいないって言ったら、可哀相って言ったくせに」
「違うよぉ、残念ねって言ったのよ。そっか、残念だなぁ」
「何だそりゃあ。どっちにしろ残念なのかよ」

 ろくに告げてもいないのに振られた格好になって、がっくりとバイトから帰る途中、携帯が鳴った。
− 月がキレイだよ −
 早苗ちゃんのメールに空を見上げると、冬の月は視界を切るように冴え渡っている。そう言えば初めてメールが来たときも月を見たんだっけ。
 スクロールすると、下の方にこっそり続きが書いてあった。

− 好きな人と同じ月見るのっていいよねぇ −

 えっ……。
 俺はまた夜空を見上げて、彼女の笑顔を思い出していた。

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