熱帯夜の赤い月

vol. 3

 私は自宅へ帰る道で、その番号に電話した。
「おう……、祥子か」
 1週間ぶりに聞く嶋村の声は、少し力が無かった。
「祥子か、じゃない! 何処にいるの嶋ちゃん!」
 私は彼と連絡がついた安堵感で、この人騒がせな男への怒りが爆発していた。
「明日は日曜だったよなぁ……、出て来れるか?」
 嶋村は返事ともつかないような返事をした。


「背後に気をつけて来いよ」
 終着駅に着く車内を見回して、駅を出た後も同じ人間が後ろからついてきてないか私は緊張していた。一体あいつは何をしたというのだ。電線で区切られていない大きな青空。道端でハコベの白い花がのどかに揺れている。のんびり骨休めに来るべき場所に、なんで私はこんなに訝しげな顔をして歩いているんだろう。
 やがて指定された民宿が見えてきた。玄関前の駐車場には送迎バスと、見慣れたあいつのバイクが置いてあった。
「すいませーん」
「――おーい、こっちだー」
 誰もいない宿で人を呼ぶと、遠くに嶋村の声がした。勝手に上がっていいものなのかと思いながら、私は声の方へ進んだ。

 その部屋で嶋村はのんびりとお茶をすすっていた。そのふてぶてしい態度に、ますます私は腹が立ってきた。
「どういうことなのよ! 一人で勝手に失踪なんかしちゃって!」
「まぁ、そう大声を出しなさんな」
 あいつはゆっくりと立ち上がり、私を抱きしめた。今まで押し倒すことはあったが、自分から抱きしめるなんて一度も無かった。私はあいつにしがみついて、その鼓動を聞いていた。

「失踪、って言うけどな? 正確に言うと『拉致』だ」
 腕を放したあいつは、一人でちゃぶ台のそばに座り、私ははす向かいに座ってあいつと自分のお茶を入れた。
「拉致、って……、随分のどかな拉致なのね……」
 私はその8畳ほどある部屋を見渡した。窓の下には川が流れ、じりじりと暑い河原に涼風を運んでいた。向こうに見える林は風に揺れている。
「あほか。ここへは逃げてきたの。拉致した奴の中に、昔俺が取り立てに使ってた奴がいたんだよ。上手い事言って、脱出した訳だ」
 なるほど。って、あいつの口ぶりにこの異常事態を理解している自分が一瞬奇妙だった。物騒な話なのに、あいつだと、さもありなん、なのだ。

「昔、俺が商売やってる時に、買掛払いきれずに自殺した経営者がいたんだよ。どうやらその関係者が、俺が追い込んだと思ってるらしいんだな。ほら、未だに金を返してくれる親父がいるって言っただろ? そいつが教えてくれたんだ。だから薄々解ってはいたんだが……、まさかいきなり拉致とはなぁ、ははは」

 この話し方が、いつも私を混乱させる。笑える話じゃないのに、いかにも自分に起こったことが面白いかのように、楽しそうに話すのだ。
「笑い事じゃないでしょ。それに、嶋ちゃんのせいじゃないんでしょ?」
「いや。取立てを依頼したのは確かに俺なんだし、こっちだって金が入らなきゃ困るしな。向こうは手荒だったと言いたいんだろう」
 冷静に話すあいつに、私は釈然としなかった。このまま逃げていても仕方ないじゃないか。何処かで誤解を解かなければ、いつまでも心配してなくちゃいけない。こういう心情的な問題が苦手な嶋村とは言っても。
「で。お前に来てもらったのは、会社にまだ休暇届を出してないし、お客んとこへ集金にも行ってないだろ。そこを上手くやって欲しい訳」
「上手くって、どういうことよ! そんなのどうやりゃいいの!」
「そこはお前が考えろ。入院しました、でも何でもいいから。あ、小川商店には言わなくていい。あそこの親父にここ紹介してもらったから、あいつだけは事情を知ってる」
 なんでもそうやって自分一人で運ぼうとするんだから。私は途方にくれて肩を落としていた。

 そんな私をあいつはニヤニヤと見ていた。
「しかし……。やっぱりあの店に行ったんだな、お前」
「だっ、だって小川さんが知ってるなんて思わなかったし、会社に来なくてもあの店なら行くかと思って……、私だって大変だったんだから!」
 真っ赤になって否定してるのを見て、あいつは面白がっていた。
「ん? 少しは影響されたか。どら、調べてやる」
「やだっ! 宿の人帰ってきたらどうするのっ! 鍵も無いのに」
「夕方まで外してくれって言ってある。それとも居た方が良かったか」
 あいつの手には、浴衣の帯が握られていた。


 当然ながら、私は職場で追求された。
「こんなふざけた話があっていいのか! 仕事ほっぽり出して休暇届なんて。しかも1週間もたって、連絡先もわからんとは! クビだクビ!」
 確かに社長の立腹はごもっともだ。私だってこんな話が納得出来るとは思ってない。ただ、上手くやれと言われてしまった手前、私があいつの仕事を代理することで会社には納得してもらうしかなかった。客先にも急病と言うことで、私が出向き、見舞いの言葉を貰うたびに頭を下げた。
 小川商店に行くと、社長がニコニコと出てきた。
「嶋ちゃん大変だねぇ、ストーカーに追われてるんだって?」
 どうやらあいつが毎日家まで付きまとわれて、身の危険を感じるから隠れ場所を紹介してくれ、と言われたらしい。確かに追われてはいるのだが……。知ってる、なんて事情は知らないんじゃないの。でも、私が聞いた話も本当に真実なんだろうか。ただ逃避したいだけなのを、あいつが言うところの「面白くしてる」だけなんじゃないか。

 でも……、あの人が抱きしめた腕はとても強くて暖かかった。
 それだけは真実だから。

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