混ざり合う風

vol. 8

「会って欲しい人はこの中にいるんですよ、冴子さん」
 上条さんの声にひとつ頷いた彼女は、ドアと自分の間に何かを見るような目をしている。その瞳に映るのは、彼女の空想した天使なのか、抑圧が生み出した悪魔なのか、私には見えるはずもなかった。
「じゃ、用意が出来たらお呼びしますから」
 上条さんの後ろで、彼女もまたお辞儀をしていた。

「ミズが、俺と美智もここに居てくれって言うんだよ、千鶴」
 ドアの音に振り向りむいたクラは、少し困ったような顔をして言う。
ベットの向こうには美智が座っている。目を腫らせ、自分の嘘のせいで好きな男が殺されそうになった事実を、全身で受け止めて憔悴している。
「それでいいの? ミズ」
「ああ。俺一人より冷静になれる」
 ……あんたはいつだって冷静だったじゃないの。その様子がこれから始まる事態が普通じゃないことを物語っている。
「どうぞ」
 白い扉は開かれた。それまで朦朧としていた瞳は、ベッドに横たわるミズに焦点が合った。その瞬間、私は今まで透明だった彼女の皮膚が塗りつぶされたように見えた。
「……ワタル……? ……渉……」
 少しよろけながら早足で枕元まで進むと、彼女は立ち尽くしたまま自分の夫を見ている。誰もが次の行動を固唾を飲んで見ていた。

「まだ生きてるぞ、冴子」

 低い声が彼女を包むように響き、その余韻に被さるように彼女の嗚咽が部屋一杯に溢れた。枕の傍に顔を埋めて号泣する妻を、首を曲げながら見つめる夫。誰も声を出せない雰囲気が、白い病室に垂れ込めていた。

 この二人は、夫婦なのだ。

 同じ家に住み、例え空気が冷えていても、夫婦として過ごした月日は誰にも踏み込むことが出来ない領域なのだと、無言の二人が語っていた。


「夫婦、なんだよな、やっぱり」
 美智を家まで送った帰り道、クラがぼそっと呟いた。
「うん……。私もそう思ったよ……」
「俺ら、学生ん時から一緒だったから何でも知ってる気がしてたけど、ミズにはミズの事情があるって事なんだよな」
 クラは茜色の空を見上げて、10代の頃を思い出しているようだった。そんな横顔を見ながら、あの3人ではしゃいでいた懐かしい日々を思い返していた。
「お前らが付き合ってるときだって、俺指咥えて見てたのにさ」
「えっ! 知ってたの?」
 やられた。こいつ何も気付かないお気楽なフリして、しっかり知ってたんだ。
「だから、千鶴が前の会社のこと愚痴ってたときだって、親身に聞いてたじゃんよ、今度こそ付き合ってやろうと思って」
「何言ってんのよ、あん時彼女いたじゃん」
「あれからすぐ別れただろ? なんか上手く行かなくてなぁ、やっぱり」
「ったく、私のせいにすんじゃないわよぉ」
 私に勢いよく肩を叩かれて、大袈裟に蹲るクラを見て、あの日のように大笑いした。

 やっぱりいい奴だ、クラもミズも。二人と出会えて本当に良かったと、夕焼けに向かって両手を広げたら、晩秋の風が吹きぬけた。


 事務所にはいつもの時間が戻ってきて、私はまた帰りの遅いクラをイライラしながら待っている。

 ミズは結局被害届を出さなかった。警察もミズにも原因があることを理解して、奥さんが療養することを条件に家へ戻した。クラは今朝、出掛けに退院間近のミズに会ってきたらしい。
「実は不妊の原因が自分なのはミズも知ってたらしいんだ。精子が少ないんだと。奥さんが躍起になってて、言い出せなかったらしい」
「夫婦って、近すぎて言えない事も、多いのかもね……」
 今は奥さんの方も回復しているらしい。子供のことは自然に任せると思えるようになったという。あの出来事を許した二人だからこそ、お互いの存在を尊重できるのだろう。かなり羨ましいと思う。
「近すぎて言い出せないことは、夫婦だけじゃないぞ……」
「え?」
「あーあ、行って来よ」
 クラは薄く笑うと残っていたコーヒーを一気に飲み干し、と大きく伸びをして納品に行った。
 美智はあの後ミズと話し、ミズもまた日々離婚を考えている状態の中で美智の存在はありがたかったこと、でもやはり恋愛感情ではないことを告げたそうだ。
「しばらく恋は自粛します。お先ー」
 WEBデザインの勉強がしたいと学校に通い始めたらしい。私も、もう一度デザインをやってみたい気持ちになっている。最近ますます認められて忙しそうなクラや、再スタートを切った美智を見ていると、自分も何か作り出したい欲が沸いてきた。ミズに言ったらきっと嬉しそうに賛成してくれるはずだ。

 しかし、クラはまた何処で引っかかっているのだろう。すっかり日が落ちるのが早くなって、ブラインドの隙間からビルの明かりが漏れはじめた。携帯の着信を見て、焦りながら返信を打つ。
『まだ帰ってこないのよ 直接行くから待ってて。ごめんなさい』

 送信したと同時に、クラは帰ってきた。バックに携帯を投げ込み、クラに鍵を放り投げて、急いでドアに向かう。
「じゃ! お先! お疲れ!」
「はいはい、お疲れ。刑事さんによろしく」
 背後でクラがソファに座りながらぼそぼそ言ってるのが聞こえたが、答えてる余裕なんてなかった。

 あの人が大きな身体を小さくしながら、もしゃもしゃと食べている姿を想像すると、ついニヤけてしまう。夜空は快晴でいつもより星も多く見える気がした。走っているおかげで、冬間近の風はかえって心地よく私を包みながら、追い風になって背中を押してくれる。あの交差点を曲がれば、ライトアップした赤い扉が見えるはず。もう角煮は頼んでるだろうか。

 注文している姿を想像して、私は笑顔で速度を上げた。

<vol. 7


inserted by FC2 system