混ざり合う風

vol. 7

 窓のない部屋で息苦しい時が流れる。
「何も、ってどういうこと」
「私、酔っ払って社長に部屋まで送ってもらったことがあるんです……」
 朝起きてみたら、ミズがベッドルームの床で寝ていた。どうやらあんまり彼女が泥酔していたので寝付くまでと思いつつ、自分も酔っていたし日頃の疲れも溜まっていて、そのまま眠ってしまったらしい。美智は眠ってるミズの服を緩め、自分の服も肌蹴て床に寝転んだ……。
「既成事実に見せたかったんです……。社長、私がどれだけ言っても、振り向いてもくれなかったから……」
 彼女は知らない。妻が不妊治療しながらカウンセリングを受けていることも、ミズが離婚を考えていたことも。ただミズを縛るために思いついた、浅はかな女の嘘だったのだ。そして、それでも振り向かないミズに向かってまた嘘を重ねた。
「社長、認知はするけど結婚はしないって……」
 美智は顔を覆って泣いた。
「残酷なようだけど……、辛いのはこれからよ。あなたそれをミズに話さなきゃいけないんだから」
 ロッカー室を出ると、窓から差す陽光がまぶしかった。白日に晒す、と言うのはなんて容赦ないんだろう。


 ミズは美智の告白に「そうか」と言うだけで、白い天井から目を離さなかった。クラは聞けばぐちゃぐちゃになるので、前もって話しておいた。嘘を追及するよりも妊娠していなかった事のほうが良かったじゃないの、と言われれば「そうかもな」とクラも言うしかなかった。
 でも、これで終わりにしていいことじゃない。ミズはそれで終わりにしたいのだろうが、私は自分に似た、自分の中に溜め込んでいたものをナイフに託すしかなかった冴子という哀れな女性を、記憶喪失にしておくことが出来なかった。

 ミズが横たわるベッドに、木立の葉陰が揺れながら映っている。その揺れが止まった時、思い切って私は憶測を投げた。
「ミズ。みっちゃんの妊娠、奥さんに話したんでしょ」
 ミズは相変わらず天井を見上げて、しばらく何も答えなかった。
「……あなた、奥さんが不妊治療したり、それを悩んで精神科に通ってたこと、知ってたの」
 驚いて美智とクラが私を見る。
「ああ」
ミズは上を見たまま答えた。その横顔はまるで血の通わない蝋人形のようだった。

 知っていたことへの驚きと、信じられない冷酷さへの怒りに我を忘れそうになった瞬間、誰かが病室のドアをノックした。大声をあげる代わりに、つかつかと歩いて乱暴気味にドアを開けた。


 上条さんが一人の女性と共に立っていた。彼女は私の顔をまじまじと見て、その後ろで上条さんがゆっくり首を縦に振る。私は後ろ手にドアを閉めて、廊下のベンチに二人を促した。

「水沢冴子さん……、ですか」
 その女性は、所在なげに病院内を見回している。その姿はミズに聞いていたよりも線が細く、とても人を刺すようには見えない。私は思わずその手を盗み見てしまった。チェックのスカートに置かれた手は、爪の形はさすがに整っていたが、マニキュアが少し剥げていた。苦しみを抱え、ショックに耐え切れずナイフを握ったその手を見ながら、胸が痛くなった。彼女を見やると、少し微笑んでくれたが、こめかみの当たりに疲れが窺える。微笑んで返すと、上条さんが話し始めた。
「かなりの賭けではありますが、水沢さんと会えば記憶が戻るのでは、と思いまして」
 その賭けとは、記憶を取り戻すかどうかもあるが、好転するかショックが重なってますます悪化するか、と言うことでもあるらしい。上条さんに今までの経緯を話すべきかと思っていたが、当の本人がいたのでは言い出せない。グレイのベンチに座る彼女は、まるで廊下のPタイルが透けてしまうほど存在感がない。そのまま消えてしまう幽霊のように、彼女には魂がなかった。
「一応、社長に聞いてみます。本人の精神状態もありますので」
 私は一旦病室に戻った。

 部屋では美智が泣き崩れ、クラがその背中をさすっていた。ミズはやはり天井を向いたまま、何かを思案しているようだった。
「通院していたの知ってて、何でそんな残酷なこと言ったの」
 上条さんがノックしていなかったら、もっと冷静さを欠いていただろう。ミズの口が開くまで、沈黙に耐える覚悟で上から見下ろしていた。
「妻は病院の言われるまま、俺に要求したんだ。その日は酒を飲むことも駄目なら、軽いものが食べたくても肉しか出さなかった。妻は男を望んでいたからね。毎月毎月そんなことを繰り返して、俺はタネだけの存在になってしまったんだよ」
 そこまで話すと、やっとミズは私を見た。解るだろう? と言わんばかりの、いつもの目つきだった。
「それはミズの、好きな人の子供が欲しかったからでしょう?」
「いや。父親が、長男が出来たら跡を継がせるって遺言したからだ」
「そんな……」
 周りがうるさく責めるならともかく、家督の為だけに自分で通院したりそれで心を患ったりするだろうか。心から夫の子供を望むからではないのか。
「そう本人がいつも言っていたんだ。遺言だから、と」
 違うんじゃないか。乗り気でない夫に自分から求めなければいけない苦しみや、あからさまに嫌な顔をする夫の無言の非難から身を守るために、彼女は「遺言だから」と言うしかなかったんじゃないだろうか。プライドをギリギリのところで保ちながらベットに向かっていた彼女へ、これほど衝撃的な言葉が投げつけられれば、精神が崩壊するのも無理はない。

「廊下に奥さん来てるの。このままでいい訳ないと思うよ、ミズ」


 まず上条刑事に事の次第を話さないと、もし奥さんが記憶が戻った時、何の話かわからないだろう。記憶の欠けた彼女に出来るだけ聞こえないように、私たちは隣のソファに移って話し始める。
「男なのであやふやかも知れませんが、彼女がショックを受けるに値する言葉だったろうとは、私でも想像できますね……。でも水沢さんの虚しさも解ります」
 黒い手帳に書く手を止め、上条さんは溜息をついた。すれ違う夫婦と、嘘を投げ込んだ美智。その誰もが憎悪を持ってやった訳じゃなく、虚しさや寂しさや、我が侭な愛情から生まれた傷つけ合いだった。その事実は溜息をつく以外表現できないだろうと、私も思った。

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