熱帯夜の赤い月

vol. 1

 疲れた女のため息をうなじに塗りたくられたような、まったりとした熱帯夜だった。

 私は、4件目のホテルの前にいた。
「ここ空いてなかったら、嶋ちゃんの部屋で寝るよ?」
 私の声が聞こえてるのかどうかも解らないノーリアクションで、高さ10センチの隙間に話し掛ける。どうやら一杯らしい。
「だからさ、嶋ちゃんち行くよ。こんな暑い夜だし床で寝るよ」
「だったら、外で寝ろ」
 あいつは吐き捨てた。それが奴なりの冗談だと理解するまでに、半年かかった。

 あいつはしぶしぶ部屋に入ると、真っ暗い中で綿シャツを脱ぎ捨て、トランクス一枚でベットに突っ伏した。
「しわになったら、家で怪しまれんじゃねぇか?」
 そのままの格好で床に転がっている私を、上から見下ろしていた。
「しわ一つもなかったら、友達んとこで雑魚寝してたなんて言えない」
「可愛くねえな」
 背中を向けるように寝返りを打って答える私に、あいつもまた背を向けるように寝返りを打って窓の外を見ていた。

 結局寝心地が良い訳でもなく、始発が動き出した音を合図に、私は起き上がった。あいつも玄関まで鍵を閉めにきた。
「ありがとう」
 真意を窺うような目で奴を見上げた。
「そら、そんな目してると、犯されちまうぞ」
 私は背中を押され、叩き出されるように玄関を閉められた。
 線路っ端の社宅が見えた時、思わず顔を覆っていた。余りに情けない自分に、人もまばらな早朝の下り電車で嗚咽した。

 嶋村が私を気分で抱き、気分で抱かない関係を続けて、1年が経とうとしていた。
 そして私の嶋村との記憶は、あの熱帯夜で打ち切られた。でも、職場の誰よりも新しい記憶なのは間違いない。

 嶋村は失踪した。


 二人の関係は職場の誰にも話していなかったけれど、私はあいつのセールスサポートだったから、当然聞いてくる人はいた。
「原、知らないのか本当に」
「知りませんよ。私も突然でびっくりしてるんですから」
 集金は全て計算して経理に渡してあった。会社からの借金もない。強いて言うなら、あの性格ゆえに客先と口論はしていただろうが、恨みを買うほどがむしゃらに働く性分でもない。

 嶋村と言う男は、変わった男だった。
 人一倍頭が切れるくせに、会社ではいつもくだらない話をしては高笑いをしていた。私が軽蔑の目を向けると、決まって一週間以内に私を抱いた。そして呼吸が整わない私の背中に、また笑う。
「お嬢さん、いつまでまどろんでんの?」
 その度に私の心はずたずたに裂かれる。そんな私を見ながらあいつは決め台詞を吐くのだ。
「去る者は追わないが、俺はしっぽを振って来なきゃ拒む男だ」

 嶋村は過去に自分で会社を興し、取立てに失敗して潰した。債務者から未だに少しずつの返済があるらしく、一度無くしたものだから、とあいつはその金で株をやっていた。決して金には困っていない。そうみんなが思っていた。そんなあいつだから、私は質問攻めに遭わなかったのかもしれない。今までの口ぶりからして、みんなが『さもありなん』と思っている。嶋村とはそんな男だ。何処までが真実かは誰も知らない。

 とは言うものの。
不細工だの可愛くないだの、他人と見比べては誰よりもビリにして心を傷を楽しむような最低の男でも、1年付き合ってきた自分には何か言って欲しかった。裏切られた気持ち。踏み躙られた愛情。
 居場所は見当もつかなかったけれど、あいつの行ってた風俗の中で潰れかかってたから300万都合つけた店があると豪語しているのを聞いていた。女の私にしてみればかなり敷居が高い場所だが、そこで何か解るかも知れない。仕事を終えて、私はその街へ向かった。

 細い路地には、過剰なネオンと、過激なイラストや誘い文句が、冷やかし禁止とばかりに人を誘っていた。その明かりの切れたところに、青白い明かりを浮かばせたビルの入口が見えた。一見端正な佇まいのBARと言ったところだが、その地下には話に聞いていた世界があると知っているだけに、場違いな空気に二の足を踏んでいたが、通行人の視線も気になり始めた。
「――全部あいつのせいよ」
 私は思い切って男の欲情の巣へ降りていった。


  「あら、消えたの?」
 嶋村の話を聞きたいとフロントの若い男性に告げると、ここでお待ちください、と事務所のような狭い部屋に通された。ドアの向こうでした声の主である『麗子』と名乗る女性は、失踪を聞いてさほど動揺はしなかった。それは皆が思う「あいつなら」と言う気持ちの他に、彼女の職業である「女王様」がそうさせていたのかもしれない。
 その声はとてもクリアに聞き取れた。私は、目の当たりにするその職業の圧倒される服装やプロポーションよりも、その声に妙なプロ意識のようなものを感じていた。

「不景気はいい。とても普通は来ない美人が風俗に入る」
 それが嶋村の口癖だった。目の前にいる麗子と言う女性もまた、景色だけで収入になると思える美しさだった。『私は好きでしてるのよ』と怒られそうな気がして、口はしなかった。
「最後に来たのは文ちゃんが骨折した日だから、日曜の夜ね」
 私があの部屋を出た日。夜まではまだここらへんにいたのか。

「貴女、祥子さんでしょ?」
 彼女は妖しく濡れたように光る赤のボンテージを、更に食い込ませるように屈み込んで、向かいのソファに座る私の顔を覗き込んだ。
「そうですけど……」
 こんなことでもなければまず一生見ることのない場所で、自分の話をされていたなんて……、なんて奴だ。
「別に気にすることないわ。こんな店だからって、身体の話でもテクの話でもないんだから。まぁあの嶋ちゃんと1年もくっついてたんだから、素質はあるんだろうけどね。ふふっ」
 はっきりと描かれた赤のリップライン、ちらと覗く歯の冷たい白さ。私まで怖くなるほどの威厳に彼女は満ち溢れていた。

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