好きな人

vol. 3

 俺はおずおずと、掃き掃除している早苗ちゃんの背後に回った。
「何かあった?」
「うわっ! なによびっくりするじゃない、音もなくっ!」
 過敏に驚く様子は、やっぱり何かを考えているようだ。投げつけられそうになった箒を拾い上げて手渡すと、奪うように取り上げた。
「何もないわよ」
 まるで背中越しに追い払うように、力強く掃いていく彼女に声はかけられなかった。今までの明るく朗らかな早苗ちゃんがどうしたと言うんだ?見た事のない彼女の行動に、混乱していた。

 店は忘年会シーズンになったお陰で、目の回るような忙しさだ。大皿の料理はけてくれる分単品のオーダーは減るのだが、何せアルコールの注文は団体のお客様だと何種類にもなるので、ぼけっとしていると覚えきれない。伝票に書いて読み直すと面倒臭そうに、はいはい、とか言いながら、持っていくと違うとか言われてムカツク事も増えてくる。
 「ったく、あの10番テーブル! ネーム見て『み〜なちゃん』とか呼んでくるの。酒臭い息で足とか触ろうとすんのよ、最低!」
 厨房のカウンターで激怒している美奈ちゃんに
「金取れ! 伝票に5品ぐらい余計に書いてやれー!」
 翔太は煽るような、マジで怒ってるような相槌を打っていた。なんとなく、翔太は美奈ちゃん狙いなのだと思った。だから、かこつけて俺にイタメールなんか送りやがったんだな。
 その時、フロアで怒鳴り声がした。

 噂の10番テーブルで早苗ちゃんがお客のスーツをおしぼりで拭いている所だった。どうやら飲み物をこぼしたらしい。
「当然クリーニング代出すんだろうなぁ?!」
 息巻く男は連れのお客が窘めるのも聞かずに、ひたすら謝りながら拭いている早苗ちゃんに向かって『お前はいいから店長を出せ!』とおしぼりを投げつけた。
 さすがにキレた。

「お客様。染み抜きしますので、上着をお預けください」
「なんだよ、お前店長か」
 あごを上げた客が突っかかってくる。
「まずはその高価なジャケットの被害を食い止めませんと……」
 座っている客を上から威圧を込めて見下ろしながら、襟から手を入れる。思った通りだ。
「奇遇ですね、私もこのメーカーのスーツを持っているんですよ。確か新宿の大通りを一本入った店で扱ってますよね? 早朝に行くと何割引……」
 男は慌てて襟を直すと、立ち上がった。
「なんて気分の悪い店だ! 飲み直すぞ!」
 喚き散らしながら、出口に向かった。店長はレジ横で強面の口元をニコニコと引き上げながら連れのお客を捕獲し、しっかりお勘定を貰っている。

「やー、安い物を見抜く目はさすがだねー、河田ちゃん。オレ高いのしか着てないからわかんないよぉ」
 片付けていると、フロアチーフが皮肉たっぷりに寄って来た。
「チーフの出番だったのに、怖気づいたんすか? 店長まで出てこないし、早苗ちゃん一人にして恥ずかしくないんですかねぇ」
 聞こえよがしに言い返して、洗い場にグラスを下げにいった。

 流しでは、黙って早苗ちゃんがダスターを洗っていた。
「これ、隣のシンク入れてくれるかな」
 カウンターにトレイを置くと、彼女は俯いたまま引き寄せた。
「ありがと」
「具合悪いなら、帰ったほうがいいよ」
 まだまだ混んでいるフロアに戻った。ここで粘ったところで、何も言わないだろう。そんな気がした。

 閉店まで客は途切れず、やっと終わってロッカー室に戻ると翔太が先に着替えていた。
「早苗ちゃん、災難だったな」
「ああ。美奈ちゃんも嫌がってたもんな、あの客」
「もし、俺だったら……、殴ってるな。聡みてぇには出来ねぇ」
 ジャンパーを羽織ながら、翔太はシュッっとボクシングの真似をして見せた。
「相当惚れてんだな」
「そ、そんなことねぇよ、どんな女の子でもだよ! じゃあ先帰るぞ」
 俺の言葉に、さっきまでの勇ましさが嘘のように落ち着かなくなって、翔太はそそくさと出て行った。
 「解りやすい奴だな」
 笑いながら、それに比べて女心ってのは何て解りにくいんだろうと早苗ちゃんを思った。いつも一番気がつく彼女が、客に酒をこぼすなんて。呆然と考えながらロッカーから出したGパンを穿いた瞬間、その冷たさに思わず身ぶるいした。俺が考えたって何にもならないことなんだ。

 部屋に戻ってストーブをつけると、もう12月だと改めて実感する。期末の勉強を全くしていないことに少し焦りながら、形だけでもテキストを広げている時に携帯が鳴った。
「聡君。さっきはホント、ありがと」
 早苗ちゃんは、少し抑え目のトーンで呼びかける。
「いや、いいんだけどさ。ホント、大丈夫なのか?」
「うん……。実はね。父って人が現れたの」
 最初、俺は彼女が何を言ってるのか上手く把握できなかった。メル友ではあったけどそんなに彼女の身の上なんて聞いたことがなかったし、それも結構複雑だなんて、日頃の元気な早苗ちゃんからは想像も出来なかった。
 「死んだって聞いてたんだけど……。母に言ったら絶対逢うなって言うし、でも……、やっぱりどんな父親でも、私にとってはたった一人だし逢ってみたいの。でも、なんか怖くて……」
 彼女の母親は父親の酒乱と暴力から、まだ赤ん坊だった彼女を連れて家を逃げ出したそうだ。一時は役所に仲裁を頼んだり色々と大変だったが、家を出て実家に身を寄せた母親には裁判を起こす金もない。相手側も社会的に大事にはされたくなかったようだが、同じく世間的な理由で離婚もしたくないの一点張りで、結局籍は抜けずじまいで今日まで来てしまった。たまたま客として来ていた父親が、自分と同じ名字の、母親の面影のある早苗ちゃんを見つけてしまったということらしい。
「俺、ついていこうか」
 頭の中で、さっきの客に絡まれたシーンが重なる。彼女の「怖くて」という言葉に、謝りながら客の服を拭いていた小さい背中が思い出されて、絶対一人で行かせたくなかった。
「いいの?」
「うん。迷惑でなければ」
 俺自身、彼女の父親に興味があった。

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