Sunset-blues

letter 10

 梅雨時になると、当然客足も鈍る。
「あーあ、イイ女がこんな所で燻ってるなんて、やんなっちゃうわぁー」
 ママは好きなジャズも聞き飽きたようで、カウンターに肘をつきながら、雨音を聞いていた。
「そう言えば……こんな日だったわね。元気にしてるの?紗和子さん」
 私も丁度同じことを考えていた。雨続きで、蒸し暑くて、客が来ない夜だった。あのドアを開けて、私を見るなり号泣した女性。それが彼女だった。

 当時私は今まで勤めていたところをふらりと辞めた後ママと再会し、ここで働き始めて半年ぐらいだった。前の店にいた若菜さんもここへ誘ったし、私としては、新しい環境でも気を使うことなく楽しく仕事をしていた。

 忘れていたわけじゃない。

 紗和子は、私が北の街に流れ着いた店で働いていた。誰も知らない街で、客の顔から診療所の場所まで教えてくれたのは彼女だった。彼女には男がいた。正確に言うと、男のために働いていた。化粧が厚く見えるのは垢抜けないからかと思っていたが、本当は、殴られたアザを隠すためだった。

 酷く寒い夜だった。店が終わって外に出ると、雪は白夜のようにネオンを空に返し、肌を刺す。青白く光る街灯の下で、紗和子の口紅の赤が唯一の色だった。
「私をここから連れ出して頂戴」
 もはや彼女は疲れきっていた。その細い肩をぽんと叩いたら、容易く折れてしまいそうで、私はそっと包むしかなかった。

 その列車は、23時発の上野行。
 車内で彼女が来るのを待っていた。私は何処かで、彼女は来ないかもしれないと思っていた。人の色恋は解らない。端から見てどれほどの仕打ちでも、捨てきれない想いがあるのが、恋情というものだから。
 発車間近になっても、なかなか彼女は現れなかった。

 やがて、駅員が旗を上げようか、その時だった。
 改札を走り抜ける彼女と、その向こうに後を追う男。首から下げた極太の金のチェーンが、彼女を縛り付ける鎖に見えた。咄嗟に私は車両を降りて、紗和子の手を引き入れた。
「ドアを閉めてくれ!」
 駅員は驚いて旗を振り上げた。間一髪でドアは閉まり、男はホームで怒鳴り散らしていた。
「人の女を取りやがって! そいつにはまだまだ働かせるんだよ!」
 遠く聞こえてもまだ、紗和子は耳を塞いでいた。

 夜が明けると、そこは東京だった。
逃げるように北へ向かい、また逃げるように戻ってきた。紗和子は二人で暮らしたがったが、私は同じ店で働く女性と同じ家に住むのはどうしても出来なかった。彼女の気持ちは判っていたのだが、どうしても薄幸な妹を、守るような気持ちにしかなれなかったのだ。

 互いにはっきりと言わないままに時が流れ、彼女も店に慣れ、東京にも馴染んだ。私は安心して、気の向くままにその店を辞めた。以来、店が変われば連絡はしていたし、忘れた頃に来るその便りに、彼女も懐かしむように返事をくれた。
 ただ、ここに来る時は、店のオーナーがキナ臭い事をしていると偶然察知して、穏便を装いながら早々と辞めた経緯があったので、連絡せずじまいだったのだ。どこかでは、もう紗和子は大丈夫だと思ってもいたのだが……。

 泣き崩れる彼女の、濡れた髪を拭きながらママは嗜めた。
「あんたねぇ。惚れさせて金貰う商売してんでしょ? だったら、そんな素人の女がするような、ただをこねるのはやめなさい。夜の女は一人で泣くんだよ」

 ――

「あの時は「自分のこと棚に上げてよく言うよなぁ」って思いましたよ」
 私はまだ来ない客を待ちながら、ママの灰皿を取り替えた。
「あら、私は店では泣かなかったわよ。自分の部屋で荒れたのよ」
「彼の目の前で切った人がよく言いますよ」
「まこちゃんだって、あんなに泣かせて、罪な男だわ」
 端から見たらハラハラするだろうが、気心が知れた者同士の、遠慮のない会話で二人は笑っていた。
 
「あーあ。客もこないしさぁ、蒸し暑いし。雪国作ってよ、砂糖抜きでね」
「あはは、雪国の夏ですか」
 
 彼女はどうしているだろう。もう5年も前の話だが……。
 そう、忘れたわけじゃないんだ。

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