混ざり合う風

vol. 5

 言葉を繋げずに黙っていると、上条さんは思い出したように聞いてきた。
「職場のほうにお掛けしたら、倉田さんが出られたみたいで……。かなり不機嫌なようでしたが、大丈夫でしたか、星野さん」
「大丈夫でしたけど、出来れば今度から携帯のほうに掛けていただきたいんです」
 私は携帯の番号を言った。
「いいんですか? じゃぁ、俺の携帯も……。やはり、刑事からの電話っていうのは、嫌なものでしょうね」
「あっ、いえ、嫌というか、みんな社長のことは気になりますから」
 職場に掛かってきても、かわしようはあった。考えてみればその方がオープンで後ろ暗くない。彼の寂しそうな、悟っているような口ぶりに慌てて言い訳をしながら、彼のせいにしてしまったことを少し悔やんだ。
「不謹慎かも知れないけど、あなたの携帯番号、ちょっとラッキーって思ってもいいですか」
 その言葉に救われたような気がして笑って返した。でも、うっすらと同じ様なことを考えていたから笑えたんだと気付いたのは、電話を切った後だった。この一日があまりにも複雑に動きすぎて、笑いたかったのかも知れない。ただ他愛なく、心から優しい気持ちになりたかった。
 昨日の分までゆっくり眠れそうだと思った。


 朝起きると雨だった。
「うーーーん」
 夢も見ない程の熟睡で、目覚ましが鳴っても外の薄明かりが身体を起こさない。なんとかベットから離れると、クラからの留守電が入っていた。
「ミズが、俺と千鶴に話があると言ってきた。みっちゃんには聞かれたくないらしい。10時から面会時間だが、医師には話してあるそうだ。9時に病院に来てくれ」
 時計を見ると8時を回っていた。10時出勤のつもりで起きたから、大慌てで支度をして病院に向かった。

 白い病室からは、雨に濡れた木々が見える。ミズは相変わらず点滴をしていたが、術後より顔に赤みが差していた。
「すまないな。迷惑かけて」
 さすがにいつもの口調は出ない。力のない声が響く。
「いいのか、口利いても」
「ああ……。痛む時もあるが、鎮痛剤も効いてるようだしな」
 腹部を刺されているため、起き上がることは無理だ。首だけをこちらに曲げて話すミズは、いつもの態度を知っているだけに痛々しさを増している。

「実はな……。美智が妊娠しているらしい」
「ええっ!」
 思わず病室で声を上げてしまった。まさか、そんなところまで二人の間が進んでいたとは、全くの予想外だった。
「俺としては、認知したいとは思ってるんだ。どんな経緯であれ、俺の子供である以上、責任は取りたい」
「認知、ってことは、再婚するわけじゃないの……?」
 ミズの離婚理由は、美智との結婚ではないのか。
「離婚は、別の形で進めたかった。実際、俺にその気持ちもあったし、結婚はしばらくしたくないと思ってる」
「お前……。そう言ったって、みっちゃんどうするんだよ、子供もさ」
 クラは、苦虫を噛み潰したような顔でミズを見下ろしている。確かにミズの言ってる事は我が侭だ。離婚はしたい、他の女に子供が出来てしまったが結婚はしたくない。それでは美智の立場はないに等しい。
「多分、俺は元々結婚に適合出来ないんだろう」
 その声に生気はないが、言い方はいかにもミズらしく理屈っぽい。
「刑事さんから奥さんのことは聞いた?」
 美智のことは驚いたが、記憶を失っている奥さんだって放っといていい問題ではない。まして、そのショックはミズが与えたものに違いないのだから。
「ああ。理由は解っている。でも、俺は訴えるつもりはない。民事不介入、と言っても無理かも知れないが……。それなら俺は不貞の夫だから」
「でも、記憶をなくしたまま、って訳には行かないでしょう」
「どうだろうか……。忘れてしまえるなら、忘れてしまいたいんじゃないだろうか……」
「まさか……。ミズ?」


 病院を後にしたものの、クラも私も事務所に行ってまともに美智の顔が見られるか不安になっていた。
「なぁ……、どう思う」
 クラは目の前でコーヒーをすすっている。お互い少し整理してから職場に行こうと、開いてる喫茶店に飛び込んだのだ。
「どうって……、どれのことよ。一杯ありすぎて解らないわ」
 ミルクを垂らした紅茶は、混ぜるたびにカップの底が見えなくなる。混ぜているスプーンも紅茶とミルクの境目も、渦の波に沈んでいくだけだ。ミズの残した複雑な言葉たちは何だったんだろう。美智とのことを「どんな経緯があったにせよ」と言い、奥さんのことを「理由は解ってる」と言う。そして自分を忘れてしまった奥さんと、何のトラブルもなしに離婚する……。
「おい、まさかミズはそんなドサクサで?」
「だから私もまさか、って言ったのよ。そしたら目を瞑ったきり、寝た振りしちゃって」
 それこそ、心神耗弱状態じゃないか。
 ともかく、仕事に行かない訳にはいかない。昨日のデザインの連絡も来るかも知れないし、二人していかなかったら皆怪しむに決まっている。私たちは謎を共有して、お互いの動揺を監視しあうことにした。

「おはよーーーっす」
「おはようございます」
 私たちが連れ立って事務所に入ると、他のスタッフが冷やかしてきた。
「ん? お二人とも目の下にクマ出来てるよぉー」
「はぁ? 私なんて昨日9時には寝ちゃったもの。睡眠充分だわっ」
「下で会っただけでクマ出来たら、俺、すげぇモテモテじゃん」
 冗談を飛ばしてると、美智がコーヒーを持ってきてくれた。
「おはようございます……。昨日は動揺してて済みませんでした」
「こっちこそごめん。ずっと寝てなかったんだもんね、みっちゃん……」
 身体に悪いよ、と言いそうになってつい飲み込んでしまった。ありきたりのことなのに、深い意味を意識してしまう。そんなぎこちなさが、まだ私の中にわだかまりがあるように見えたのか、美智はそそくさと立ち去った。確かに疑問はぐるぐると回っている。もはや理性と感情の境目までが混ざり合って消えかかっていた。

 ミズと美智が……。

 私の初めての男は、水沢渉だ。

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