混ざり合う風

vol. 6

 私の課題を手伝っているときだった。一通り色を入れ終わって、ホッとしているとミズはニヤニヤとしながら言った。
「千鶴、顔にマーカーついてるぞ」
「えっ、うそぉ、どこどこ?」
「ここだよ……」
 ミズは私のあごに触れて、一瞬微笑んでキスをした。

 私はミズを嫌いではなかったけれど、そんなことをする人だとは思っていなかった。いつも冷静で、いつも斜めに見ているような。心が動くような人に見えなかった。
「なんて顔してんだよ」
 そんな驚きが顔に出てしまったのか、ミズは私を見て寂しそうに笑った。結局、その表情に負けてしまったのだろう。光々と明るい蛍光灯、10枚のデッサン画、ハンバーガーの入っていた袋。そんな鮮やかに飛び込む色の中で、誰もいない校舎の静けさが余計に切なくて、気付くとミズの手を握っていた。
 当時ミズの住んでいたアパートは、鉄筋の階段だった。2人分の足音がしないように昇ったことを何故か今でも覚えていて、カンカンという音を聞くと妙にセンチメンタルになる。

 ともかく、最初の男と言う存在は、出来ればその後の恋を見たくない対象らしい。2人目、3人目ならばお互い様と言えるかもしれないが、やはりその人から「女」が始まったと思うと、その男が他の女に同じように微笑んだり触れたりすることは考えたくない。ミズが結婚していると聞いても何ともなかったが、美智の妊娠を聞いたときはショックだった。生活なら構わないが、恋はやっぱり見たくなかったのだ。まして全く知らなかった事に、少し裏切られた気分にもなっていた。

 空いたカップを給湯室で洗うついでにクラを見ると、私とは違った視線で美智を見ていた。男の甘さと言うか、女の冷たさと言うか、「妊娠しても結婚は出来ないらしい可哀相な女」を見る顔なのだ。それはそれで正論だが、私はどうしてもミズの口幅ったい言い方に引っかかっていた。「どんな経緯」の経緯とは一体なんだろう……。
 ミズの性格から言って、自己責任だと思えばあんな逃げ口上は言わない。そう思っているのは、過去の女のひいき目なのだろうか。
 やがて美智は直帰すると言い残してミズの見舞いに行き、クラと私は同時に溜息をついて、苦笑した。


 昼休み、上条さんから電話が来た。
「こんにちは、何か変化がありましたか?」
 受話器の向こうから、上条の声と車の音が混ざり合う。
「いえ……。でも、冴子がカウンセリングを受けていた事は解りました」
「えっ、と言うことは、通院歴、と言うことですか」
 奥さんはお父さんの会社を継ぐ人だから、精神的にきつい部分もあったんだろうか。
「それで耗弱とは言い切れませんが……。通っていたのも婦人科からの紹介だったようですし」
「婦人科?!」
 一本に繋がった気がした。上条さんの言葉を奪うように質問した。
「それ、不妊治療じゃありませんか?」

「どういうことですか、何か心当たりでもあるんですか」
 美智の妊娠を告げるわけにも行かず、友人の例え話のようにその場は取り繕ったが、やはり奥さんは不妊治療を受けていた。もし自分に子供が出来なくて、心から日々血を流して悩んでいるところに、他所に子供が出来たと聞かされたら……。
 ましてそれが愛する人からだったら。

 ――私だって刺すかも知れない。


 朝、すっかり晴れ上がった空を見ながら、何処か憶測を抜け出せないジレンマを抱えていた。空気は少し冷たくて、ホームに立つと電車が押し出す風に頬がピンと張った。
 ミズは知っていたのだろうか、奥さんが不妊治療をし、カウンセリングを受けていた事を。話によると、奥さんという人はお嬢様と言うこともあってあまり人に弱いところを見せないタイプだと言う。強がってる背中がまるで自分の後姿のようで、見たこともない彼女に同情を覚えた。でも、それも推測でしかない。

 事務所に入ると、またクラがソファで寝ていた。そうか、あの日に鍵を渡して以来取り返してなかったのか。
「クラー、ちょっと鍵返しなさいよー! あんたドサクサでずっと持ってるんでしょーーー! 鍵ーーーっ!!」
「ん? お、おぅ、デザインそこに出来てる」
 クラは寝ぼけているようで、もぞもぞとうわごとを言っている。
「それは一昨日でしょ! ほらっ起きてよ、もおっ!」
 必死にクラを起こしていると、美智が出勤してきた。
「あ、みっちゃんおはよ。もうクラが起きなくて困ってんのよー」
「……。いいですね、楽しそうで……」
 美智は暗い顔をして、ロッカーに消えた。やっとクラもそのタイミングで起き上がった。
「元気ないな」
「ちょっと見てくるわ」
 ロッカー室へ行くと、何かを探している様だ。
「どうしたの」
「え、あ、いいんです。ちょっとそこまで行ってきます。すぐ戻りますから」
 そそくさと美智は事務所を出て行った。

 戻ってきた彼女が下げていたコンビニの袋に、胸騒ぎがしてそっとロッカーを覗きに行った。美智は紙袋をゴソゴソと開けていた。
「みっちゃん……」
「……千鶴さん、聞いたんですね」
 手にしていたのは、ナプキンだった。コンビニは、生理用品を買うと透けないように紙袋に入れてくれる。それは買ったことがある者にしか解らないだろう。

「嘘、って事なの?」
 ロッカーの鏡に映る美智は、下を向いて目を瞑っている。
「結婚する気はないって……。だから、妊娠してるって言えば考え直してくれるかと……」
「――その嘘はいけないわ。みっちゃんとミズの間に何があったかはわからないけど、男女の話に妊娠を使うのは卑怯だわ」
「何があったかって……、何も……、何も……」
 美智は目を伏せたまま、呟いた。

<vol. 5  vol. 7 >


inserted by FC2 system