Sunset-blues

letter 7

 今日最初のお客様は、いつも大勢で来られるので名前すら存じ上げないのだが、今日は珍しくお一人のようだ。
「お飲み物はどうなさいますか」
「酔い覚ましにギムレットを」
「ははは、かしこまりました、じゃライムの効いてる所を」
 そうは言ってみたものの、本当にだるそうにしてらしたので、あまり酷いようなら早めに諌めようかと思っていた。

 その方は一口飲むと、疲れた顔で溜め息をつきながら聞いてこられた。
「……現実逃避したい事ってないですか」
「ありますよ。全部放り出して何処かに行きたくなりますよ」
「そうですよね……。俺、今逃げだしたくてしょうがないんです」
 私は話を続けるべきか少し考えたが、その方の指がトン、トンとカウンターを弾くのを見て、言葉を待っているような気がした。
「お仕事、大変なんですか」
「ええ……。仕事も……、人間関係もですね」
「いつも一緒に来られる方は、会社の方ですか?」
彼は私の後ろに並ぶ酒瓶を眺めながら、その指を止めた。

「……もう俺は何処かに消えたいんだ!」

 頭を抱えながら叫ぶ声に、女性陣が一斉にこちらを見た。その目は「困ったお客様」を見る目だったので私はゆっくり首を横に振り、彼女たちの安堵した顔を確認してから、宥めるように言葉をかけた。
「何か、問題が起きたのですか」
「俺……、人事部で……、人員削減してるんです……。仲間には組合をやってる奴がいて、いつも敵対してしまって……」
「リストラを言わなければいけないんですか」
 私は酷く同情した。仕事とはいえ、今まで同じように仕事をしてきた仲間を、この厳しい世間に剥き身で放りださねばならないのだ。
「最近じゃ迂闊な事言えないって……。仲間売るような事絶対しないのに」
 彼は、仕事のせいで友情まで失おうとしていた。
「ホントに……。何処かへ行ってしまいたいです……。でも、自分だって職を失いたくない。この不条理に耐えられなくて……」
 それは、私から見ても心の叫びだった。

 聞いていたママが、フロアに靴音をつかつかと響かせてやってきた。濃紺のパンツスーツはかなりの意気込みで、私はやれやれと思った。
「宮部さんは、優しすぎて人事部には向いてないのよ。配置換えしてくれって言ってみたら? それだと自分が切られちゃう?」
 さすがにママはお客様の名前を覚えている。しかし……、この勝気さには困ったものだ。サラリーマンを少しやっただけで、自分から辞めてしまった人が意見したところで信憑性がない。
「まあまあ……みんなママみたいに逞しくないんですから……」
 私はママを宥めていた。なんてことだ、お客様を宥めるつもりだったのに。私の言葉はお構いなしに、ママはしらふでまくし立てる。
「みんな、火の粉は自分で払ってんのよ。屈せずに頑張って食い下がってんだから、宮部さんだって言えるでしょうよ」
 黙ってグラスを見ている宮部様がカウンターに映る。見ているこちらが申し訳なくて、小さくなってしまう。
「仲間を無くしてまで、したい仕事なの?それ」
 ママの口調が熱くなって、代わりにLPが一枚終わった。
「ママ、BGMが終わってますよ。」
 あら、と、ママも悪びれる風でもなくプレーヤーの方へ行ってしまった。そろそろいい年なんだから、議論したら必ず勝ちたいなんて子供っぽい考えは卒業して欲しいのだが、それがママの持ち味でもあるから、なんとも厄介だ。

「すいませんねぇ……。お詫びになにか一杯サービスしますよ」
 いえ、と彼は苦笑して、じゃぁ同じの下さい、とグラスを差しだした。暫く仕事の愚痴を聞いていたら、宮部様も落ちついてきたようだ。ママも奥でホステスさんたちと雑談しているようで、出てこない。そろそろ混み始める時間だな……、と思った時、がやがやとお客様が来店してきた。

「やぁー来たよー」
 その声は、宮部様のお仲間だった。一瞬気まずい空気が流れたが、こういう気配に敏感なのはママ。
「ちょっと、坂井さんたち、宮部さん一人で待たせて駄目じゃないの」
 慌てて立ちあがろうとする宮部さんを、私は引きとめた。
「あんた達飲んだくれてるだけの仲間なの? こういう厳しいご時世だからこそ、1番大切なのは仲間でしょ? 仲良くやんなさいよ、もぉ。ほら、宮部さんもこっち来る!」
 梨奈さんと若菜さんも混ざって、その場を盛り上げてゆく。そのうち、大勢の笑い声の中に宮部さんの笑い声も聞こえてきた。手荒ではあるが、さすがはママだ、と私はほっとした。

 店が引けた後、ママに聞いてみた。
「坂井様に電話したでしょう」
「さぁ、なんの事かしら? 偶然よ、偶然」

 嘘をつくと左の眉が上がることに、ママはまだ気付いてないらしい。

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