恋話

scene 8 ― 25age

 その人は、通勤電車で出逢った。
 満員電車に乗り込むと、いつも身動きが取れなくなる。痴漢もいるし、その被害に遭わない場所を探す事になる。しばらくして、同じ車両の同じドアから乗るようになった。乗り降りの便もあるが、ここには痴漢がいないと言う安心感もあった。

 乗ってしまえば人の顔なんて近すぎて見られない。見ないようにしている。
 私は、そういえばいつも同じ人が真正面にいると気付いた。顔を見たくなった。その人はそんなに身長が高くなかったので、チラと見上げれば顔は見えた。

 彼は中吊りのほうを見ていた。年上だな。ちょっとカッコつけてるけど、悪い人じゃなさそうだ。そう思った時電車が停車駅についた。人の波が彼のほうへ傾いて、私は持たれる格好になった。彼は、頭を私のほうへ寄せ、見上げた私をそのまま埋めてしまった。
「えっ? えぇっ?」
 でも、一瞬そうなっただけで、あとはそのまま終点に着き、彼は降りていった。

 次の日。彼はまた私の前に立っていた。またすし詰めになって来て、身動きが取れず、私はあごが上がってくる。
 その時。
 彼は私を見ることなく、私の髪にKissをした。
 私は、なんとなく、こうなることが解っていた。同じ車両に乗ったんだから。いることが解っていたんだから。
 無言の彼の誘い。
 私は彼の首に唇で触れた。彼は目を逸らしたまま私にKissをした。

 手を掴んで私を降ろした彼は、夜、私が来なくても改札で待つと言った。私は、会社でかなり考えた。でも。
 その夜。彼の贅肉のない背中に驚いていた。
 美しい野獣だな、と思った。

 彼に家庭があることや、私より20歳も上だと知ったのは、彼の馴染みの店のドアの前だった。そこは会社で使っている飲み屋で、“私の歌を聞きたい”という流れから行くことになったのだが、当然御用達であれば家庭の話も出るだろう、と観念したらしい。ショックではあった。でも、冷え切った家庭の話をする彼に、かなりの同情と、ここまで来てしまったという度胸が重なって、2年間で離婚するから、という彼の言葉を承諾した。

 逢わない日はなかった。仕事帰りも、休みの日も、ボーリングに行き、居酒屋に行き、カラオケに行き、時には彼の小さな愛犬とスクーターで遠出して、バーベキューもした。
 それと同じエネルギーで、彼は私にいろんな事を教えた。

 それまでの私は、男が抱き、女は目を瞑るものだと思っていた。彼は、男がすること、女がすることを私に教えていった。
「君は女だから比べられないだろうけど、かなりの上玉だから自信持って。俺が言うんだから間違いない。ただ、磨かないと持ち腐れだよ」
 この人は身体だけなんじゃないかと疑う事も良くあったが、そう言うといつも彼は拗ねて帰ってしまう。
「こんなに愛しているのが解らないの?」
 でも。頭の中にはいつも「でも。」がいた。

 そんなある年の暮れ。なんと、奥さんのバイト先が、私の会社のお得意である事が判明した。彼は私と出歩く事を隠してはいなかった。隠すと返って怪しまれるから、知り合いの子とカラオケ行ったり、ボーリング行ったりすると話していたらしい。
 だからって、まさか私の職場まで話しているとは思わなかったが……。
「夫のお友達がいるのよ、是非遊びにいらっしゃいって伝えてよ」
 奥さんはそう言って、私を会社の営業を介して呼んだのだ。
 彼は、無視すればいい、と言った。でも行かないでいて、奥さんからお客さんである店主に下手なこと吹き込まれてはたまらない。行きましょう、と答えた。

「あいつはあいつで付き合ってる男はいるんだ。男好きするタイプかもしれない。」
 聞いていたイメージよりは普通に見えたが、確かにちょっと派手な感じだった。薄ら寒い会話をして、彼女の白い車で私の最寄駅まで送ってもらう。
 車内では彼女が、助手席に座る彼に昔話をしている。彼女が、私の知らない話を振って挑戦している。私はひとり、後部座席でにこやかに聞いていた。
 そう、にこやかに。

 彼は私と一緒に駅で降りた。車が去るのを見届けて、Kissの後に言った。
「嫌な思いさせて済まなかった。正月には離婚の話をしてくるから」
彼は、電車で帰り、私は駅に置いたスクーターで家へ向かった。

 自宅マンションの駐輪場に止め、ヘルメットを取った時だった。その白い車が私の前で止まり、彼女は降りてきた。
「一発叩かせて頂戴」
 言うか言わない間に、彼女は私の頬を叩いた。さほど痛いとは思わなかったし、ごく自然に微笑んだ。

「気が済みましたか?」

 この瞬間、彼の愛をもらっているのは私なのだと、はっきりわかった。

 離婚の話は紛糾した。私も、そういつまでも待てなかった。2年の月日が流れた。結局、別れ切れない彼は私を手放すと言い、感謝の気持ちだからと、手切れ金と金のネックレスを拒む私に握らせた。

「もし35の時独身だったら、俺が面倒見る。もし離婚していたら子供ごと面倒見る」年上の彼らしい言い方だった。

「あなたたちは、結局似たもの夫婦なのね」
心の中で呟いた。

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