恋風

scene 1

 その人は、当時の同じ会社にいた。
 いつも楽しくて、いつも笑って、くだらないおやじギャグを連発して、文句も言うんだけど、ちょっと情けなくて、でも、とってもいい人だった。

 ある日、送別会があった。とても平均年齢の高い会社で、当時は、毎月誰かが定年にあった。会社でよく使う居酒屋で卓を囲んでいたら、唐突に営業の一人が私に言った。

「出来てんじゃねぇの?」

 当時の会社は、女が2人しかいなくて、私は現場でおじさんたちと仕事をしていた。しかも、もう一人の彼女は中途採用だったから、あまりそう言う話が振られる事はなかった。私が言いやすい性格なのもあるが。

 に、しても。
 頭の中で、「お父さん」の感覚しかなかった私は、25歳も年上の、母よりも年上の、「まったくもって安全」なその人が、そんな話題に出てくるとは、驚きだった。

「おぅ、出来てんだよ、知らなかったのか?」

 私はますます驚愕した。てっきり笑って済ますと思っていたので、思いっきり、その人を顔を見てしまった。その人は笑っていた。あ、なぁんだ、酔ってるだけなんだ。
「そうそう、仲良しだもんね」
 私は、意味もなく安心して一緒に答えた。

 ある日、工場の機械の調子が悪くて、かなり残業になった。着替えてロッカー室から出ると、ちょうどその人が帰るところだった。
「おう、お疲れさん、飲みに行くか」
 いつもの飲み屋ではなくて、その人と私の帰り道の、丁度分岐点になる駅の近くの飲み屋だった。

 酒が入るに連れ、片っ端から職場の人の話で盛りあがった。その人は若い頃の職場みんなを知っているので、聞いてる私はとても楽しかった。
 終電間近の時間になった。

 同じホームで、登りと下りの電車を待っていた。
 その人の電車が先にくるアナウンスが流れる。
「どうもごちそうさまでした」
 そう言った私の手をその人はすっと掴み、手の甲にKissをして笑った。
「こちらこそごちそうさま」

 それから何度か飲みに行く事はあったけど、いつも楽しい話に大口開けて笑って、色気もなにもなく、帰りはホームで手を振った。

 その人が定年で辞める日に、こっそりと聞いてみた。
「あのホームのこと覚えてる?」
 その人は、ばつが悪そうに笑った。
「あいつがあの時あんな事言うから、ついね」
 ああ、やっぱりあの「出来てんじゃねぇの」のせいだったんだ。

「そのせいだけじゃないけどな? いいだろ、もう昔の話だし。元気でやるんだぞ」

 毎年、正月になると、今年はどんなおやじギャクの年賀状か、楽しみにしている。


inserted by FC2 system