ガラスの街

由野 錯


――どうやって呼べばいいのだろう。五年ぶりに再会したというのに。かつてのように、「姉さん」と呼ぶのはなんだか座りが悪い。背中のあたりがむずむずして、ひびが入り、体がばらばらになってしまいそうなんだ。ああ、ほんとうに、なんと呼べばいいのだろう。あなた、ああ、このあなたという言葉も寒気がする! 仮にあいつらがつけた名前、Iと呼ぼうか。それともここでの流儀にしたがって、Pと呼ぼうか。
――そうね。姉さん、っていう呼び方が気に食わない点ではあたしもあんたと同じ考えだわ。S、あんたが、うん、確かにこのあんたっていう二人称もおかしい感じがするわね、でもこればっかりは仕方がないわ、S、第一、あんたがあたしのことを「姉さん」と呼んだらあたしはSのことをなんて呼べばいいわけ? あんたがあたしのことを「姉さん」と呼び、あたしがあんたのことを「あんた」だとか「S」って呼ぶのは不公平だわ。もっとも、あのころは無邪気すぎてそういう不公平にも気づかなかったわけだけれど……。かといって、「弟」と呼ぶのはおかしいし。それにしても、SとかIって本当にくだらない名前ね。まああいつらのセンスなら仕方がないけどね。でも、S、あんたにPって呼ばれるのも嫌だわ。ここにやってくる沢山の、あたしにとっては名前がないのも同然な、そんな男たちがあたしを呼ぶように、あんたがあたしのことをPと呼ぶのは、それこそ体にひびが入りそうだわ。それにしても、きょうはなんてサプライズな一日。あたしはサプライズという感情をこれまでまったく忘れていたから、あんたの顔を見て、これがサプライズなことだと考えるのにちょっとばかり時間がかかったほどだわ。でもまさしくこれはサプライズだわ! 男がやってきて、また次の男がやってくる。ベルトコンベヤーに乗って、安っぽいガラス球が次々とあたしの元にやってくる。みんな同じ球形。あたしは女というシリコンクロスでその表面を磨いて、またベルトコンベヤーに送り出す。また次のガラス球がやってきたと思ったら、あらびっくり、Sという刻印つきの球がやってきたんだわ!

 ふたりはSHIBUYAにあるクリスタルタワーの五十四階の、表向きはクラブ・バーとされている店の一角のソファーに座っていた。ソファーはピンク色のガラスでできているのにもかかわらず、異様なほどに弾力があって、それはちょうどソファーの形をしたピーチゼリーといった感触だった。いつからか、それはずっと遠い昔からのことだが、この世界のすべてはガラスになっていた。Iは五年前に比べて、よく肥っていた。ステンドグラスのように、けばけばしい色あいの薄いガラスの洋服は、彼女の体を覆うのにほとんど用をなしていなかった。Iは毒々しい芳香を発する花そのものだった。花であると同時に、肉食性の動物でもあった。そのふくよかな胸はその半分がこぼれ落ち、肉付きのいい脚のほとんどが露になっていた。いまのIのガラスの曲線の輪郭は、かつての少女のそれではなかった。そこに多くの男が通り過ぎたあとがあることを、Sは認めないわけにはいかなかった。Iの存在は、文字通り宝石箱をひっくりかえしたようなこの店の中でも、その固有の豊かさと輝きによって、ひときわ目立っていた。たいしてSは、五年前と比べてたいそう植物的に痩せ細っており、もしこのふたりがかつてのように戯れ、ひとつのゼリー状の物質となるならば、それはおそらくIがSを吸収するという形でしか達成できないように思われた。

――ここにいる人間はみんな透明だね。ぼくはこういうところには来たことがなかったんだ。いつもいつも、SHIMOKITAZAWAのアパートから、KOMABAのキャンパスに通うばかり。あそこには不透明な連中がたくさんいる。たとえば、きょうの五限のフランス語の授業のまえ、MINSEIのやつらが、突然教室にやってきて、センソウハンタイ、と叫びながら、「AMERICAの侵略戦争に断固反対の意思を示そうではないか」とかいうビラをまきにやってきたんだ。そいつらの体はひどくにごっていた。半透明というより、ほとんど陶器に近かったな。それで、クラスのなかで二番目に透明な体をしたやつが、いや、一番透明なのはこのぼくなんだが、とにかくそいつが、けたたましく笑いはじめて、ビラを教壇の上にいるMINSEIの連中に向かって投げたんだ。ちょうどフリスピーを投げるみたいに。そしたら、ビラがちょうどやつらのひとりの頸部に命中して、そいつの首はぽっきり折れてしまった。胴の方はその場に倒れ、首は教室の床に転がってもまだ「センソウハンタイ、センソウハンタイ」って叫んでいた。ほかのMINSEIの連中は仲間を見殺しにして、さっさと去っていった。やがてフランス語の教官が教室のドアを開けてやってきて、悪いことには、さっき首と胴がばらばらになったMINSEIのやつの体を首と胴の両方とも踏み潰してしまったんだな。ぱりぱりと小気味のいい音を立てて、そいつの体は砕け散ってしまった。教官はとくに何の反応も示さないで、というより気がつかなかったんだろうと思うけれど、授業をはじめた。不思議なことに、授業がはじまったとたんに、学生の一部は半透明になり、一部は完璧に透明になった。もちろんぼくは透明なままだった。でも、全体の印象としては、あの難解なパズルを思わせるフランス語の文法のせいで、教室は不透明になったというべきだろうな。ぼくはそれに耐えられなかった。だから途中で教室を出た。ああ、あそこは程度の差こそあれ、不透明なやつらばっかりだ。ここではみんながみんな透明だ。透明なガラス……。世界はすべてガラスになった。いったいこれはいつからだったろう? 思い出せない。でもとにかく、この世界はすべてガラス製で、あるのは透明か不透明かの違いだけだ。そしてここはみんながみんな透明だ……。
――そうね。みんな透明。ほら、あのカウンターでブランデーを飲んでいる男を見てごらん。違う、そっちじゃないわ。両脇に女を抱えている方の男。あの人はここの常連よ。最初は不透明だったんだけど、ここに週に三度くらい来るようになってからは、すっかり透明なクリスタルになったわ。あの人なんか、あたしたちここの女よりずっと透明なんじゃないかしら。あたしたちは仕事上、できるだけ自分を透明に見せなきゃいけないんだけど、あの人にはかなわないわね……。ところで、あんたは大学生になったのね。(ところで、MINSEIってなに? え、知らなくてもいい? じゃあ知らないでおくわ)学生。しかもKOMABAの。そういえばS、あんたは不思議なくらい数学ができて、ひとつ上のあたしがぜんぜんわからないような問題をあっさり解いてみせたものね。KOMABAの人たちならときどきここに来るわよ。不思議だわ、あの人たちは。それまで不透明だったのが、ここに来たとたん、一気に透明になるんだから。ああ、学生ということは、S、あんたはまだおかあさまの経済的な庇護を受けているのね。情けない。まああんた自身が割り切っているのならそれでいいんだけれど……。あたしはおとうさまとは縁を切ったの。あたしはあなたとおかあさまと離れ離れになったあと、半年も経たないうちに、脱走したの。家出といってもいいけれど、なんだかそれって俗な響きがして嫌だわ。それに、家出っていったら、あたしがいつかはあの薄汚れた場所に帰らなきゃいけないみたいじゃないの。それは違うわ。あたしがしたのは脱走。でもそこには勇気なんてこれっぽっちもいらなかったわ。とにかくやつからは離れたかった。やつ、またはやつらの目の届かない、無限に伸び縮みする、匿名の人間の集まる場所、TOKYOに行きたかった。そしてたどり着いたのが、このSHIBUYAのクリスタルタワーだったっていうわけ。そしてS、あんたもTOKYOにやってきたのね! なんていう偶然! あんたはあたしがここにいることを知ってやってきたんでしょう? どうしてわかったの?
――それが不思議なんだ。フランス語の授業を抜けて、ぼくは図書館で本を読んでいた。いや、本を読んでいたというよりは、本棚の迷路をあちこち歩き回りながら、なんとなしに暇な時間をやり過ごしていた、というべきだろうな。陽が沈んでからしばらく時間がたったときのことだった。哲学書のコーナーの本棚から不透明な本をとってはまた元に戻す、それを繰り返していたとき、あの場所にそぐわない、ひどく透明な、ぼくよりも透明なガラスでできた男がぼくのもとにやってきて、名刺を差し出したんだ。そして、「お姉さんに会いたくないですか」と言ってきた。名刺に書かれていたのは、なんだっけな、とにかく変な名前……そう、ヨシノサクっていう名前だった。どこかで聞いたような気もするけれど、思い出せない、不思議な名前さ。ぼくがうなずくと、「じゃあ、私についてきてください」という。これもおかしなことだと思うんだけれど、図書館の人間は誰一人、男の存在に気づいていないみたいだったんだ。もっとも図書館とはもともとそういう場所なのかもしれないけれど。でもあそこの図書館に出入りするのには、KOMABAにかかわる人間全員に配られるIDカードが必要なはずなんだけれど、どう見ても彼は学生じゃない。もちろん教授や事務員にも見えない。なんというか、この世界より一段上にいる人間といった印象だった。この世界のどんな職業も彼に似つかわしくなかった。見た目の印象もよく覚えていない。特徴がなさすぎたんだ。痩せてもいなければ太ってもいない、目鼻の位置もとくに指摘する点はない。どんな描写も拒む外見だった。あえていうなら、その男の体はかぎりなく澄んでいた、ということだけさ。だからいま彼の顔について思い出そうとしても、思い浮かぶのはのっぺらぼうのお化けってあたりでね。で、ぼくはその怪しげな男のいうとおりについていったんだ。Iに会いたい、その一心で。ぼくたちはキャンパスを出た。彼はタクシーを止めた。そしていったんだ。「SHIBUYAクリスタルタワーまで」と。
――ヨシノサク? 確かにどこかで聞いたような気がするけれど、思い出せない名前ね。まるで幼いころに読んでもらったおとぎ話に出てくる神様の名前みたいな……。
――そう、まさに神様みたいなやつだった。タクシーのなかで、彼は窓の向こうのガラスの街に目をやりながら、いったんだ。「あなたとお姉さんは、俗に言う『近親相姦』の間柄にありましたね。それで、あなたの両親はこの事実に気づいて、あなたをお母さんのもとに、お姉さんをお父さんのもとに置くという条件で離婚なさった。まあ、もっとも、そこにはあなたの両親の不和の問題もあったわけですが……。『近親相姦』の発覚はあなたがたの両親の離婚のきっかけというべきでしょうね。そして一方では、あなたがたの家庭のいわば無政府状態が、あなたがたきょうだいを『近親相姦』という関係に追いやったといういきさつもあるわけですが……」ぼくはその意見に反対した。ぼくたちが関係を結んだのは何か理由があってのことじゃない。ぼくたちは仲のいいきょうだいだった。仲のいいきょうだいの常として、よくふたりきりで遊んだ。遊ぶこととは、大人のすることを模倣することだ。ぼくたちはいわば、子どもがままごとをすることの延長線上として、あの行為をしたのだ。たったそれだけのことであり、そこには何の意味づけの余地はない、と。彼はぼくの反論に微笑して答えた。彼はまだ窓の向こうを眺めていたけれど、その表情がゆるんでいたのはなんとなくわかった。「では、あなたはお姉さんを、いや、Iさんといいましょう。Iさんを愛していないというわけですか?」ぼくはどう答えていいのかわからなかった。そもそも愛するということはどういうことなのだろう? ぼくはそのことを彼に尋ねた。彼はまだ窓の向こうを眺めていた。そしてまだ微笑んでいた。「私にもわかりません。あなたたちが再会することによって、その答えがほんの少しでもあきらかになれば、私は満足します」彼のこの答えは妙だった。どうしてぼくたちの再会が、「愛」の正体をあきらかにすることになるのだろう? そしてもしそうなったとして、どうしてそれで彼が満足することになるのだろう? そう思っているうちに、タクシーはこのクリスタルタワーの前に着いた。いったいどれくらいの時間がかかったのか、よくわからない。ほんの十分だったような気もするし、ぐるぐる遠回りをして一時間か二時間くらいたったような気もする。ぼくたちは料金を支払うことなく車から降りた。あとから考えてみると、あれはタクシーじゃなく、あの男の自家用車で、運転手はあの男専属の人間だったのかもしれない。そこで彼はぼくに、「Iさんはここの五十四階のクラブ・バーで働いています。しかし、店のものにIさんに会いたい、なんていってはいけませんよ。IさんはそこではIさんではないのですから。受付でPという女性を『指名』してください。本来、Pさんを『指名』するのにはかなりのお金が必要なのですが、その点は心配しないでよろしい。私がすでに便宜をはかっております。そのPさんが、Iさんです。ではご健闘を祈っています」と耳打ちした。ぼくはしばらく目の前のクリスタルタワーの高さに途方にくれていて、彼のほうを見ていなかった。これはまるでバベルの塔だ……。われに返ってあたりを見回して見ると、あの男は消えていた。ぼくはSHIBUYAの人ごみのなかにひとり取り残されていた。ガラスの雑踏の中に……。
――うふふ。その男は本当に神様なのかもしれないわ。その神様は「愛」の正体をはかりかねていて、「愛」とは何かというアポリアを解明するために、あたしたちを実験材料に使っているというわけね。そうじゃなきゃ、こんな偶然の再会はありえないわ! この無限のガラスの街で! それにしてもその男は、神様としてはかなり愚劣な部類に入りそうね。神様のくせに「愛」が何なのかわからないなんて! そういえば「愛」つまりLOVE、あんたが習っているフランス語ではAMOUR、あれはもともとあの神様たちが使う常套句じゃないの! なんて滑稽な神様なんでしょう! ねえ、乾杯しましょう。あたしたちの偶然の再会と、神の愚かさに!

 そんなIの声も、ともすれば店内のざわめきのなかに消え入りそうだった。このクラブ・バーでは、透明な男女がところどころで素っ頓狂な歓声をあげていた。キャー、ヤダー、イイカライイカラ、そうして彼らはある合意に達すると、店の奥にあるいくつかの個室に入るのだった。男女一対のときもあるし、男ひとりに対して女三人という場合もあった。はじめのうちSは、Iがそういう女たちのひとりなのだと思っても、とくに不快感を覚えなかった。街で見かける不透明な恋人たち――例外こそあれ、恋人たちはだいたい不透明だった――の関係と、自分たちの関係、いや、正確にいえばかつての自分たちの関係がまったく違うものなのだと、そのときSは悟った。
けれども、いま目の前にいるIはかつてのIではなかった。Iの目のまわりには妖しげな蒼の縁取りがしてあったし、唇はつややかなピンク色に染まっていた。そこにはかつての少女らしさはまったくなかった。そのうえ、彼女の動きはいちいち官能的で、――おそらくそれは特にSにたいしてだけのものではなく、慣習的なものだったのだろう――無邪気な「遊び」をしていた昔のことがうそのように思えてきた。しかし、Sはいまもなお自分がIを求めていることを知った。そしてそのことが、Sを不安にさせた。Sはそれまでまったく中性的であり植物的だった自分が変わりつつあることを感じた。自分の内部のなにかがパリン、という音をたてて割れてしまったような気がした。これまでの人生で、守り続けてきた自分の透明さが、いままさに失われつつあるのではないか。しかも実の姉に対して! けれども一方で、Sはずっと前からわかっていたのだ。自分がもしなんらかの性的な観念を持つならば、その対象はかつて無邪気な、それでいて禁じられた契りを交わしたこのI以外にありえないだろうということを。たとえその姿がどれだけ変わったとしても。Sが求めていたのは女という抽象的な概念が指定する範囲に属する数々の点のうちのひとつではなく、Iという具体的なひとつの点だけだった。このかぎりなくかぎられた可能性、つまり近似的な不可能性によって、それまでのSは中性的な存在でありつづけたのだが、その可能性は実現されてしまったのだ。いまやSの内部の堤防は決壊し、彼の存在の核からは得体の知れない乳白色の液体がとめどなく流れ出て、それが彼の体全体を満たそうとしていた。
隣でグラスを傾けるIの姿をまじまじと眺めながら、Sはあの日々を思い返してみた。かつて姉と交わることは遊びでしかなかった。しかしいまあの行為を透明な「遊び」として再現することは不可能だった。だとすればどういう形で可能なのだろう? そしてSは、どんな形であれ、そういう行為を望んでいるいまの自分をかえすがえすも恐ろしく思う。Sの薄い胸は激しく波を打つ。自分の体がどんどん不透明になっていくのがわかる。こんなことはかつてなかった……。Iの体は一杯、また一杯と酒を飲むにつれて、どんどん薔薇色に輝いていった。しかしその体はSと違って依然として透明だった。Sはある衝動に駆られて、その透明なガラスの指先に、くちづけをした。それはその店では当たり前の行為だったが、Iはほんの一瞬それを受け入れたかと思うと、気を取り直したように手を引っ込めた。見ると、Sがくちづけをしたその部分だけほのかににごっていた。

――ああ、恐ろしいことだわ。S、あんたはどんどん不透明になっていく。しかもあたしと話をすることで! S、あんたはあたしを求めているのね。昔のように。でも、昔といまは違うわ。S、昔のあたしたちは透明だったのよ。だからあんな「遊び」が許されたんだわ。あたしたちが不透明な状態で、あんなことをすることは恐ろしいことよ。たしかにここはそういうことをする場所だわ。でもあたしはいちどとして不透明な状態であの行為をしたことがない。もういちどいうわ。S、あんたはどんどん不透明になっている。これは恐ろしいことよ! 第一、不透明な状態でいるのは、ここでは禁じられているわ。(ほら、周りを見てご覧なさい!)第二に、きょうだいは、不透明な状態になってはいけないものなの。あんたは二重のタブーを犯しているわ! けれどまあ、第一のタブーはなんてことはないわ。商売上のことだもの。問題は第二のタブーよ。あの神様にいわせれば、「近親相姦」ね。あんたはいまそれを犯そうとしている。
――でもむかし、ぼくたちは平気でそれをやっていた。
――ああ、S、あんただって、わかっているでしょう。あんたはそのヨシノサクとかいう神様にいったでしょう。あれはままごとの延長なのだと。けれどもいまあたしたちがそれをやるのは違うわ。あんたの不透明さがまさにそのことを物語っているじゃないの!
――いまぼくはわかったんだ。I、ぼくは不透明になることを恐れていた。けれどもその一方で、不透明になることを望んでいたんだ。このガラスの街は確かに居心地がいい。けれども、ぼくはこのガラスの街の持っている無名性、永遠性に飽き飽きしていたんだ。いや、飽き飽きどころじゃない。ほとんど絶望していた。たぶんそれは不老不死の人間が千年生きて、生きることに絶望した、そのときの感情と同じものだとおもう。いま、ぼくはあなた、Iの胸に飛び込むことを望む。Iという名前を持っている、ぼくの姉であるあなたに。
――S、いまあんたは不老不死の人間が千年生きたときの感情、といったわね。あたしもときどきそれを感じるときがあるわ。いいえ、いつもといってもいいくらいだわ。考えてごらんなさい。あたしの毎日を! 名前を持たない男たちが次々とあたしの体を貫いていくの。逆の言い方をすれば、あたしはあのかぎりない男たちを吸収していくということになるわね……。どっちだって変わりやしない。終わりなんて想像できないわ。けれども、不老不死の人間を死に至らしめることができる唯一の毒薬、それを飲むことだってひどく恐ろしいことよ。
――やってしまえばおしまいさ。そしてぼくたちはふたりで暮らすんだ。すべてを終らせるんだ。終らせたあとには新しい毎日が待っている。そう信じよう。ああ、気のせいか、I、あなたの体も、だんだん不透明になっている……。
――ああ、酔いのせいだわ。あたしこんなにお酒を飲んだのははじめて。酔うとときどき何もかも終らせたいという気分にならない? S、あたしはだんだんあんたに説得されつつあるわ。なんて恐ろしいことなんでしょう。ところで問題、このクリスタルタワーは何階建てでしょう?
――さっき地上で見たかぎりでは、はるか天まであったな。まったく想像もつかない。
――ふふ。実はあたしも知らないの。ひょっとしたら無限なのかもしれない。昔の人が夢見たバベルの塔みたいに……。いったい誰がこんな途方もない建物を作ろうとしたんでしょうね。バベルの塔を作る試みは神の逆鱗に触れて失敗したけれど、これがもし現代版のバベルの塔にあたるなら、作ったのはいったい誰なんでしょうね……。エレベーターで行けるのは百階までだわ。でもそれより上も階段でのぼることができる……。タワーに絡み付いている螺旋階段があるわ。ねえ、S、あたしはまだあんたとあの行為をすることは決心がついてないわ。こうしましょう。あたしたちはこのタワーをのぼり続ける。ただし、あたしはあんたの先に……。
――つまりぼくがIの後を追ってのぼる。
――うふふ、よくわかってるじゃない。ただしあんたは必要以上に足を速めてはならないわ。もし、このタワーに頂上があったとして……。
――頂上があったとすれば、ぼくは頂上でIを捕まえることになる。
――そういうわけ。あたしは百階までエレベーターで行くわ。S、あんたは百階まで階段をのぼっていくのよ。あの、誰ものぼったこともない空にむき出しになった、非常用の螺旋階段を! そうしたらたぶん、あんたが過剰に足を速めないかぎり、あんたはあたしが頂上につくまであたしに追いつけないわ。もっとも、あたしも頑張って逃げるから、あんたの鈍い足では途中で追いつくことは無理でしょうね。さあ、ゲームのはじまり。この店からでましょう。

 そして彼らはピーチゼリーのソファーから立ち上がり、決然として店の出口へと向かっていった。ほかの客たちは自分たちの戯れに夢中で、誰一人として彼らに注意を向けなかった。店を出るとき、店長と思われるスーツを着た山のように太った、しかしこれもまた限りなく透明な男が、「おやおや、どうしたことです、これは」といって立ちふさがったが、Iがなにやら耳打ちをすると、うなずいて引き下がった。
 エレベーターは店を出たすぐのところにある。Iは上りのボタンを押すと、どうせこの扉が開くまでにはかなりの時間があるのだからといって、Sを非常階段へと案内した。非常階段に出る扉は、エレベーターの右手の突き当たりにあった。Sはこのとき、はじめて五十四階からの地上の景色を眺めた。夜の街は黒いガラスの板だった。きらめく灯りや、それを受けてうごめく人々の影はその黒いガラス板の中の色とりどりの空気の泡のように見えた。
 ガラスの扉はなかなか開かなかった。その向こうにはガラスの階段が透けて見えるというのに、そこにたどり着けないのはなんとももどかしかった。Iによれば、この扉は誰も開いたことがないために、その慣性で、扉というよりは壁になってしまったに違いない、とのことだった。ふたりは仕方なくその扉、というより壁を壊すことにした。ふたりがかりで体当たりすると造作もなく壁は砕けた。どうやらこの壁はあたしたちより脆いガラスでできていたみたいね、あたしたちの方が砕けなくてよかった、とIは笑った。そのとき、エレベーターがやってきたことを知らせる機械的な音がガラスの廊下に響き渡った。

――じゃあ、S、あたしはあれに乗って百階まで行くわ。ではとりあえず、さようなら。あたしのS。もう二度と会えないかもしれないわ。
――I、ぼくたちは会えるよ、きっと会える。
――せいぜいそう信じていなさい。ああ、あんたの体はいま、本当ににごっている。完璧に不透明だわ……。
――I、あなたもにごっているよ。ぼくと同じくらいね。そしてそうであるかぎり、ぼくたちは頂上で出会えるだろう。このタワーに頂上はあるだろう。そういう気がするんだ。

 Iは微笑んで、身を翻し、エレベーターの中へ入っていった。Sは階段をのぼりはじめた。見上げると、タワーの内部にある、高速でのぼっていくエレベーターのなかのIが、こちらに向かって手を振っている姿が眼に映ったが、それは一瞬にして、こちらが手を振り返す間もなく遠ざかり、粒のようになって、やがて空高く視界から消えた。クリスタルタワーに蛇のように巻きついている螺旋階段は果てしなく上につながっている。建物からむき出しになったガラスの階段から、下を見下ろすと、恐怖でめまいがする。上を見ても、その果てしなさにめまいがする。ここにきてSは、このタワーに終わり、つまり頂上があることをだんだん疑うようになった。このクリスタルタワーは永遠に続くのではないか? しかしSは首を振り、その考えを頭から追い払った。このタワーには必ず頂上がある。そこでぼくはIを捕まえ、この無機質で永遠な世界に別れをつげる、死の契りを交わすことになるだろう……。
 Iは百階から螺旋階段をのぼるとのことだが、どこまでが百階なのか、Sには判じがたかった。はじめのうち、Sは五十五、五十六、と階をあがるごとに自分の足取りを数えていたが、八十に達する前にその努力を放棄した。第一、そんなことに何の意味がある? ぼくは頂上まで上り続けることだけを考えればよい。そこには必ずIがいることだろう。
 Sは上を見ることをやめた。むろん下も見なかった。夜の冷たい風は気持ちがよかった。Sが見ていたのは自分の不透明なガラスの足だけだった。おなじ階段があまりにもずっと続いているので、自分の足が物理的に運動しているのを確認することが、自分の歩みを確かめる唯一の方法だった。終わりが見えないこと以外には、困難なことはなにひとつなかったが、それこそがもっとも大きな困難だった。Sは夢想した。Iが自分のはるか上、頂上で、自分を待ち続けていることを。

 どれだけのぼったのか、Sにはわからなかった。彼にいま理解できることは、階段がここで終っていて、自分の足がある平面にたどり着いたということだけだった。空を見上げると不毛な闇の中に、透明な月が異様に近く見えて、その内部からみなぎっている光りがいま立っている平面をきらきらと照らしていた。Iはいなかった。その代わり、Sをクリスタルタワーまで案内したあの男がそこに立っていた。Sはガラスの平面に崩れ落ちて、声を振り絞った。

――なぜあなたがここにいるんです。ヨシノサクさん。ああ、ここにいるのはIのはずだったのに。
――まあ落ち着きなさい。それよりあなたはすっかり不透明になってしまいましたね。まあ私の『構想』どおりといったところですが……。
――『構想』? なんのことです、それは? とにかく、ぼくにいわせれば、あなたは透明すぎますよ。いまのぼくにいわせればね。あなたの体の向こうにある月が透けて見えるくらいだ……。それよりIの行方を知りませんか? あなたなら知っているはずだ。
――知ってますとも。ただし、物事があなたの思うとおりに、いや、いまはあなたがたというべきでしょうね……。とにかく、そのように進んだとき、この世界は崩壊しますよ。それでもいいのなら、お姉さん、いや、Iさんのところまで案内いたしましょう。
――この世界を崩壊させるためにぼくたちは会うのだ。しかしあなたはなんという邪魔者なのだろう。
――いかにも、私はあなたがたにとって、いや、すべての意味において邪魔者です。あなたがたは私を神と呼びましたね。まあある意味ではそれはあたっているでしょう。神は本来、世界に降り立つべきではない邪魔者です。しかしまあ、そういう野暮な話は置いておきましょう。私の目的は一応のところ、というより、ごくわずかですが、達成されました。あなたとIさんをおつなぎしたらすぐ、この世界から消えますよ。後ろを振り返りなさい。

 Sは男のいわれるままに後ろを振り返った。そこには体を薔薇色に輝かした、しかし完璧に不透明なIが立っていた。Iはよろめき、Sはその体を受け止める。こうしてふたりは抱き合い、転げまわった。この世界の邪魔者たるあの男はもういなかった。しかし、彼らは感じていた。いまふたりが寝転がっているこのガラスの平面にひびが入っていて、クリスタルタワーが徐々に崩壊しつつあるということを。いや、クリスタルタワーだけではなかった。文字通り、ガラスの世界に終わりが訪れようとしていた! 愛撫に疲れ、長いくちづけをしている最中にも、ふたりの耳の奥にはぴしぴしというガラスの割れる音が鳴り響いていた。

(完)

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