詩と小説

これは詩です。これは小説です、と
言い切ることは出来ても
そのボーダーを明確に引くことは
きっと意味がないと思います。
創造、と言うものを型にはめてしまうことになるからです。

手順や手法を無視したり、疎かにするつもりはありません。
詩などは特に、リズムとか言葉運びとか
やっぱり定型詩には定型詩の
人の心に伝わりやすい心地よさがあります。

私の書く一枚小説(めるまがや恋話等)は
一行の文字数を決めていません。
数ページに渡るもの(物語り)は
一定の文字数で改行しています。

これは、単なる私の感覚なのですが
一ページで読みきれるものには
その一画面の中全部でスタイルがあって
単語や文字の途中でざくっと切られてしまうと
興ざめと言いますか、一気に読んでもらいたい
こちらの伝えたい流れが止まってしまう気がするのです。

でも、これは詩の手法と同じです。
だから読む人にとっては、これは詩ではないか、という
迷いを与えてしまうかもしれません。

じゃあ、私の中での詩と小説の区別ってなんだろう?
と考えてみました。

詩は、心の断片であり
小説は時間の断片である。
と言うのが私の結論でした。

時間の断片を書く詩もあるでしょう。
心の断片を書く小説もあるでしょう。

でも、私は詩と小説では書き方が違うんです。
小説は最初に時間(一瞬でも壮大でも)と場所を作って
その中で主人公の心を書いていくので
ある程度それを窺わせる状況を書くようにしていますが、
詩は、とにかく心から溢れてしまったものを
状況になぞらえて書いている気がします。

共感、と言う言葉があります。
小説は主人公やそのストーリーに
感情移入してくれたら嬉しいと思います。
詩は、もっとシンプルに
「私に共感してちょうだい!わかってちょうだい!」
って言うものだと思うんですよ。
誰かが思っていることではなくて、私が感じたこと。
それを例え誰かに置き換えて言わせたとしても、
根底には、私はこんなに悲しい、こんなに嬉しいって
心が乗ってこないと、文字が生きてこない気がします。

だから私は、小説は書けても詩は書けないって
スランプがよくあるのです。
主人公になりきることは出来ても
詩を書くだけの感情がMAXにならない。
言葉が溢れても
心が溢れないと詩は書けないんです。

あくまでも、私の場合、ですけどね。


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