著作

はじめに。
私は「著作権」を振りかざし
ちょっとでもかぶったような事があったら
こめかみに血管を浮き立たせながら
侵害だ! と騒ごうと思っている訳では在りません。

私は、ここで拙い文章を
首を捻り、心を吐きだし、もがきながら
それをまた楽しみ、発散しています。

それは決して優れた物ではないけれど
血を通わせた、間違いなく私が創った物です。
当然思い入れも在りますし
文章に書かれていない感情のドラマも行間にあるのです。

でもどうでしょうか?
私の周りでは、勝手に持ち去るものの話が
「ありがち」な話として点在しています。
まるごとあり、引用あり、加工あり。
「だから私はサイトを持つのは考えている」という声もあり。

読み人知らずとして広まっていくのなら
わざわざ明記して戴かなくても
私の文章に限って言えば、私的にはいいのです。
それを「自分のものと嘘をつくこと」がいかんのです。
はっきりいってそれは『偽物』です。『泥棒』です。
それを平気でやってしまうという
「ものを書く行為」への認識の低さが問題なのです。

一見関係なさそうに見えますが
「青少年有害社会環境対策基本法案」も
この認識の低さが招いている問題だと思っています。
「個人情報保護法案」と「人権擁護法案」を含めた
メディア3点セットが特に曖昧で危険です。
こないだの防衛秘密法
(捜査の為なら黙って騙して盗聴するし、その人が
犯人じゃなくても操作の為だから謝らないよ、の法律)
が通ってしまったことにも、かなり危惧しているのですが。

この3点セットは、言論の自由を制限し
監視下に置こうとする措置をかなり含んでいます。
個人情報保護法に至ってはその性格上
逆に市民一人ひとりの表現活動にも
広く規制の網がかけられているのです。
表現の自由その他の国民の基本的人権を
不当に侵害しないように留意しなければならない、と
うたってはいますけど、じゃあそれを誰が決めるのかと言えば
結局官庁の作る機関なのですよ。

ほんとはね?
そんなこと個人的な認識の問題だと思うんですよ。
モラルの話になるとね、私だってモラルが
「倫理」って意味でもあることは知ってますので
大きい声では言いませんよ。
そんなこと言ったらテメエは何なんだよって
石投げたくてうずうずしてる見ず知らずの方が
ネットに存在していることぐらい、私だって承知してます。

だけど。
著作にまでこうやって規制をかけようとしていることは
著作、という人が創りだしたものへ対する
距離の取り方が間違ってるからだと思うんですよ。

書かれていたものが気に入れば自分のものとし
気に入らなければ圧力をかけようとし
まして、創ったものと同じようなことを
実際の行動にうつしてしまう。
著作物として楽しむ、という接し方が何故出来ないのだろう。

しかも、それを出来ないなら
その物自体を排除してしまえばいいじゃないか
という考えかたは、あまりに短絡的ではないか。
戦争をしているところに爆弾落として片付けちまえと
言っているようなものではないか?

きっと知らないだけなのだ。
著書の楽しみ方も
著作者の苦悩や、その才能に感動する術も。

だからこそ、私達は知っていかなければならない。
知らせていかなくちゃいけない。
自由と好き勝手は違うことを。
抑圧から思慮は生まれないことを。

著作への熱意と共に
それをえぐられることがどれだけ著者を傷つけるのか
叫ばなければいけないんだ。
私はそう思っています。


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