福祉

突拍子もない題名で
? と思われた方もいるでしょうが
私の今まで生きてきた中で
かなりのカルチャーショックであったので
これはちょっと書き記しておこうかと。

私が昔住んでいた所は
とても大きなリハビリセンターがありました。
その影響で、よく駅や歩道で
障害を持つ方と遭遇しました。

或る日、駅構内で視覚障害者の方が
階段を上がっておりました。
たまたま私は誘導の仕方をテレビで見た後だったので
杖を持つ反対側から声をかけ
その手で自分の二の腕を掴んでもらい
階段を上がってゆきました。

私はどこかで
「ふふん。私は誘導の仕方を知ってるんだぞ」
と思っていたのかもしれません。
その人は私に言いました。

「俺は交通事故で突然見えなくなったんだ。
あなただっていつこうなるかわかんないんだよ」

私は少しムッとしましたが
それ以上に驚きました。
親切にしてくれる人にそういう事が言えちゃうんだ、と。
でも、次の言葉で私は納得しました。

「この体になってから、
『すいません』と言うことが多くなった。
みんな『いいんですよ』って言うけど
言うのが当たり前のように振舞うのが
見えない俺には見えるんだよ。
健常者には迷惑な存在なのかねぇ
悪い事はしていないのに」

彼の発言には
確かに歪んだ部分もあるかもしれません。
健常者だって人に助けてもらえば
『すいません』と言うんですから。
でも、障害を持つ人は圧倒的に助けを必要とします。
その不自由さと負い目の中で
彼が少しばかり歪んでしまったところで
それを指摘できるのは
同じ障害を持つ人のみかも知れません。

私はそのとき
福祉にあるべきものは
『すいません』ではなくて
『ありがとう』なのだと実感しました。
いえ、本当は福祉だけではなく、どんなことでも
『ありがとう』なんだろうと。

なまじ子育てだけでもよく音をあげる私が
障害者の方との関わりを
知ったように書くこともおこがましい話ですが
まぁ、独白、ですから勘弁して戴いて。

今の仕事は
福祉の仕事とは言い切れませんが
一端にある仕事です。

確かにビジネスライクでなければ
やってられないこともたくさんあるのが常のようです。
逆に「家族の面倒を金で」とか
「親切心をお金に替えるなんて」と言う
いかにも日本的な考えも根強くあるようです。

でも、それは昔私が感じたような
「施し」の気持ちを総てなくしてしまうことで
介護する側も、される側も、利用者も
「ありがとう」の輪の中で過ごせる気がするんです。
理想論ですかね。
でも、理想を持つことは悪いことじゃないと私は思います。

何かをしてもらう歓びもありますが
何かを手伝えた歓び、と言うのは
何重もの歓びなのだろうと。

その気持ちを持ち続けることが出来たら。
何事もいい方向へ進むと思うのです。
その道はかなり険しくて
わがまま私には苦難の道のりでもあるんですけどね(苦笑)
理想は、高く。


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