いつか花園神社で

IZUMINAOAYU

 

 どこをどうやってこの場所にたどり着いたのか全く記憶がなかった。気がついた時には地下鉄のホームに立っていた。地下鉄の駅から長い時間をかけてゆらゆらと階段を上り地上にたどりついた。長く伸びた真っ直ぐな髪と化粧気のない細い小さな青白い顔は、人目を引くには十分なほどの怪しい美しさがあった。いささか焦点の定まっていない両目には疲労と絶望が見え隠れしていた。

 十八からの五年間を東京で過ごした。二年ほど付き合っていた男が二股をかけていたことに気づいたとき、父親譲りの熱い血潮が彼女の頭の中のスイッチを押した。怒りが彼女の全身を駆け巡り、気づいた時には男の職場に乗り込んでいた。大勢の人間が見ている前で何も言わずにその男の股間を蹴り上げた。男は股間を両手で押さえ、両膝から床に崩れ落ち前のめりに倒れこんだ。スローモーションで倒れこんでいくボクシング選手を見ているような錯覚に陥った。

 地上に出ると、大きな通りの向こう側の歩道は、たくさんの露店と多くの人たちでごった返していた。彼女はふらふらと、その人ごみに入っていった。人ごみの中に入ってしまうと、人の流れに押し流され細い参道を抜け神社の境内へと押しやられてしまった。すでに一日の終わりの時間になろうとしていた。参道よりもさらに多くの人々でごった返しているその場所は、大小様々な熊手が、無数の露店で所狭しと並べられ、たくさんの裸電球に鮮やかな色で映し出されていた。その様々な熊手を買い求めるために、熊手の多様さに負けないくらいの様々な人種もまた集まってきていた。普通の家族連れ、堅そうな商売人、水商売のママ、若いホスト風の一団、派手な身なりのやくざ。決して安くはないその熊手を買い求めるために、この場所へと人々は集まってくる。熊手がひとつ売れるたびに、三本締めが行われていた。この不景気にもかかわらず、そこかしこから三本締めの手拍子と、拍子木の音が鳴り響いてくる。
 よく見ると、熊手を売る露店と並んで、屋台の居酒屋があちらこちらに店を出していた。粗末なテントに安っぽいテーブルと丸いす。炭火串焼き、魚介類の炉端焼き、おでん等等。どこかのガード下の居酒屋とほとんど変わらない風情だ。

 彼女は、本殿横にテントを張ったおでん屋の丸いすに一人座り込み枡酒を呑んだ。すでに胸の奥にしまいこんだはずの数時間前の怒りが、枡酒とともに胸の奥の奥からよみがえってくる気がした。その怒りを押さえ込むためにいっそう枡酒を呑んだ。

 どのくらい呑んだのだろうか。胸の中の怒りが麻痺してきた頃、まだ人がごった返している境内へと彼女は階段を下りていった。足元はかなり危うく、胸の中の怒りが麻痺していったのと正比例して、彼女の意識も朦朧としていた。本殿でおまいりを終えた人々は、一様に本殿前の参道を真っ直ぐに進んでいった。彼女もその人たちの波に飲まれて、ふらふらと一緒に同じ方向へと歩いていった。気がつくと、赤い布の仕切りに「異界へようこそ」と書かれた小屋の中に彼女は押し入れられていた。目の前では一人の老女がろうそくを二十本程束にして火をつけたものを高く持ち上げ、溶けた蝋を口の中へ注ぎいれていた。その様子を見ていると、口上が始まった。彼女の耳には何を言っているのかが理解できなかった。
― コウチュウカエンノジュツ
 焦点の定まらない目でろうそくの炎を見ていた彼女の目の前に、突然大爆発を起こした石油タンクのような大きな強い炎が広がった。あまりの眩しさに、彼女の視界は数秒間白いカーテンがかかったかのように真っ白な世界となってしまった……。視界が遮られた彼女は、地面が回っているような錯覚に陥った。地面が回り、底無し沼に引きずり込まれてしまうような、ゆっくりと海の底へ沈んでいく沈没船のような感覚。
 目の前の風景がようやく元に戻った頃、今度は細くて五十センチほどの蛇を持った別の老女が登場した。蛇の頭と尻尾を左右それぞれの手で持って、ちょうど真ん中の蛇のお腹あたりを老女はぺろぺろと舐めた。次の瞬間、蛇を頭から噛り付き、頭を噛み切った。かと思うと自分の足元に噛み切った蛇の頭を吐き出した。頭を噛み切られた蛇は、のた打ち回って、老女の手の中で暴れていた。それから頭を噛み切った蛇を顔の前に高く上げ、滴り落ちる血を口の中に注ぎ込んでいた。蛇から滴り落ちる血が老女の口から溢れ、口の周りを真っ赤に染めていた。いささか酒の呑みすぎで頭が朦朧としていた彼女は、一瞬、
― 私にもできるかもしれない ―
と思った。しかし次の瞬間には、意識が途切れてしまった。

   気がつくと、辺りは明るくなり始めていた。彼女は見世物小屋の楽屋らしきテントの中に敷かれている畳の上で、毛布に包まって寝ていた。見世物小屋はきれいさっぱりと無くなって、見世物小屋の部品であったであろう物を、大きなトラックに積み込んでいる作業が続いていた。起き上がった彼女は、積み込み作業をしている見世物小屋の責任者らしき人間を見つけて話始めた。
― 私を一緒に連れてってください。蛇を食べることができるかもしれない ―
 ここでも父親譲りの熱い血潮が、彼女のスイッチを押してしまった。

 次の興行場所へ向かうトラックの荷台に彼女は座っていた。遠ざかり行く花園神社に向かって、彼女はつぶやいた。

― いつか、花園神社で、きっと蛇を喰ってやる ―

(完)

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